邯鄲の倡女であったが、かつて嫁いだ宗族を混乱させたことがあり、夫の死後は寡婦となった。のちにその美しさが悼襄王の目に留まり、彼女を娶ろうとした。趙の将軍李牧は「国家の安定を損なう恐れがある」と諫めたが、悼襄王は「乱そうが乱すまいが、政を行うのは私である」と言って聞き入れず、彼女を迎え入れた[1]。
当初、悼襄王の王后は嘉(代王嘉)を産み、太子に立てられていた。悼倡后は側室として宮中に入り、遷(幽繆王)を産んだ。悼倡后は悼襄王に寵愛を受けていたことから、密かに王后と太子嘉の事を悼襄王に讒言し、人を使って太子嘉を罪に陥れた。悼襄王は嘉を廃嫡とし、遷を太子に立て、現王后を廃位して悼倡后を王后に立てた。悼倡后は淫乱で不徳義であり、孝成王の子の春平君(中国語版)と私通していた[1]。
紀元前236年、悼襄王が薨去し、遷(幽繆王)が趙王に即位した[2]。
紀元前229年、秦から賄賂を受け取り、幽繆王に讒言して李牧を誅殺させた[1]。
紀元前228年、秦軍が邯鄲を陥落させ、幽繆王は捕らえられた[2]。趙の大夫たちは、悼倡后が嘉を誣告したことや李牧を殺したことを怨み、悼倡后を殺してその一族を滅ぼした[1]。嘉は一族数百人を率いて北部に逃れると代王として擁立され、趙の亡命政権の代を建てた[2]。
紀元前222年、代王嘉が秦軍に捕らえられ、趙は完全に滅亡した[3]。