愛友写真倶楽部

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愛友写真倶楽部(あいゆうしゃしんくらぶ)は、1912年に名古屋市で結成された日本のアマチュア写真団体である[1][2]。 大正期の芸術写真運動を代表する団体の一つであり、1920年代には日本のピクトリアリズムをけん引した[1][2]

愛友写真倶楽部は、1912年に日高長太郎、佐野紫影らを中心に結成された[1]山本五郎も創立同人に加わり、大正期には代表を務めた[3]。 事務局は中区広小路の山本五郎商店に置かれ、同店は名古屋における写真活動の拠点の一つとなった[4]

活動

愛友写真倶楽部は、風景写真を中心とする芸術写真の制作によって知られる[2][4]。 日高長太郎は「表現の極致はゴムにあり」として山岳風景などを題材に重厚なゴム印画作品を発表し、大正期のピクトリアリズムにおける風景表現を主導した[1]。 また、松浦幸陽らを含む愛友写真倶楽部の五人、すなわち日高、大橋、益子、榊原、松浦の表現は、「集団的な美事なピグメントの重圧」とまで称され、全国的にも「旭日昇天の愛知組の進出」と高く評価された[4]

刊行物

愛友写真倶楽部は、作品集や機関誌の刊行にも力を注いだ[5]。 作品集『画集』は第1輯から第4輯まで刊行され、第3輯は山本五郎が発行し、第4輯は松浦幸陽が編輯発行を担った[5]。 1925年4月には機関誌『愛友』が創刊され、1935年10月号まで継続が確認されている[5]。 また、1926年7月には『日高長太郎遺作集』が刊行された[5]

継承

日高長太郎の死去と、榊原青葉、益子愛太郎の相次ぐ退会の後も、愛友写真倶楽部は松浦幸陽によって支えられ、その後は三國庄次郎や海部誠也らに引き継がれた[4]。 近代名古屋の写真表現は愛友写真倶楽部に始まり、その蓄積の上に後年の新興写真や前衛写真の展開が築かれた。創立同人の一人で大正期に代表を務めた山本五郎の長男である山本悍右も、そうした名古屋の写真文化の土壌から現れた後続世代の写真家の一人である[2][3]

評価

関連項目

脚注

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