日高長太郎
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1883年、愛知県知多郡東浦村に生まれた[1]。大正期の名古屋で愛友写真倶楽部を創立し、その中心人物として活動した[2]。同倶楽部は写真画集『画集』を刊行し、名古屋の芸術写真を広く発信したが、その第3輯の発行を担ったのが同じく創立メンバーであった山本五郎である[5]。山本五郎はのちに山本悍右の父として知られる人物でもあり、日高の世代が築いた名古屋の芸術写真の基盤は、その後の名古屋の前衛写真文化へ連なる重要な前史をなしている[6]。
1914年の大正博覧会に《斜陽》を出品して褒状を受け、1919年の第60回日本美術協会展では《斜陽》《秋の河畔》で銅賞、1920年の第62回展では《凪》で銀賞、1921年の第63回展では《木蔭》で銀賞を受けた[5]。1923年からは東京写真研究会の「研展」審査員を務め、1924年に審査員出品した《白樺》は秩父宮に献上された[5]。1926年4月3日、流行性感冒の療養中に肺炎を併発して死去[7]。同年7月には愛友写真倶楽部から『日高長太郎遺作集』が刊行された[5]。