日高長太郎

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日高長太郎(ひだか ちょうたろう、1883年 - 1926年4月3日)は、日本の写真家。愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)に生まれ、名古屋市を拠点に活動した。愛友写真倶楽部の創立者として知られ、大正期の芸術写真運動を代表する写真家の一人である[1][2]。後年の展覧会や研究では、日高と愛友写真倶楽部は名古屋写真史の出発点として位置づけられており、近代の名古屋が「写真の都」と呼ばれる背景を考えるうえでも欠かせない存在とされている[3][4]

1883年、愛知県知多郡東浦村に生まれた[1]。大正期の名古屋で愛友写真倶楽部を創立し、その中心人物として活動した[2]。同倶楽部は写真画集『画集』を刊行し、名古屋の芸術写真を広く発信したが、その第3輯の発行を担ったのが同じく創立メンバーであった山本五郎である[5]。山本五郎はのちに山本悍右の父として知られる人物でもあり、日高の世代が築いた名古屋の芸術写真の基盤は、その後の名古屋の前衛写真文化へ連なる重要な前史をなしている[6]

1914年の大正博覧会に《斜陽》を出品して褒状を受け、1919年の第60回日本美術協会展では《斜陽》《秋の河畔》で銅賞、1920年の第62回展では《凪》で銀賞、1921年の第63回展では《木蔭》で銀賞を受けた[5]。1923年からは東京写真研究会の「研展」審査員を務め、1924年に審査員出品した《白樺》は秩父宮に献上された[5]。1926年4月3日、流行性感冒の療養中に肺炎を併発して死去[7]。同年7月には愛友写真倶楽部から『日高長太郎遺作集』が刊行された[5]

作風

日高は、ゴム印画法による山岳・風景写真で知られ、東京都写真美術館の講演録でも「山岳写真の雄」であり「日本の絵画主義の一時代を築いた」と紹介されている[2]。代表作として《朝の小川》《日没》《高原の冬》《盛夏の頃》《木蔭》《木曾路の春》《白樺》などが知られる[5]。同講演録では、1920年頃の《盛夏の頃》から1921年の《木蔭》にかけて、日高の表現が単なる景色の再現から、画面のなかに光を見いだし、それを構成的に扱う方向へ進んだことが指摘されている[2]。この点で日高の仕事は、絵画主義写真の完成例であるだけでなく、後の写真表現の展開を考えるうえでも重要な位置を占める[2]

評価と位置づけ

脚注

参考文献

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