初めは濮陽王に封じられた。美少年であり、惰弱な性格だった。父帝からは愛されていた。
建興11年(396年)、祖父の成武帝慕容垂は崩御すると、清河王慕容会を次代の皇太子に指定した。しかし慕容宝は慕容会には不満で、庶出の長男の長楽王慕容盛と慕容策のどちらかを新たな太子に立てようとした。慕容盛も慕容会を嫌っており、自ら譲歩して慕容策を太子にすべく進言した。結局、慕容策が太子に立てられた。
永康3年(398年)5月、配下の蘭汗が慕容宝を殺し、慕容策も殺された。蘭汗を殺して即位した慕容盛により、「献哀」の諡が贈られた。