神奈川宿
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| 神奈川宿 | |
|---|---|
| 種類 | 古代宿場 |
| 所在地 | 神奈川県横浜市神奈川区 |
| 座標 | 北緯35度28分30秒 東経139度37分59秒 / 北緯35.474995度 東経139.632958度座標: 北緯35度28分30秒 東経139度37分59秒 / 北緯35.474995度 東経139.632958度 |


神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)は、東海道五十三次の3番目の宿場である。
武蔵国橘樹郡小机領(神奈川県横浜市神奈川区)にあった、神奈川湊の傍に併設された宿場で、相模国や武蔵国多摩郡・三浦半島・房総半島方面との人や物資の経由地として栄えた。幕末には開港場に指定されたが、実際には袖ヶ浦対岸の横浜村(関内)が開港し、商業の中心は外国人居留地が作られた横浜村へ移っていった。
助郷
1601年(慶長6年)東海道の成立とともに神奈川町に宿場が置かれ、後に青木町も加わった。両町の境には滝の川(「滝の」は「滝野」「滝ノ」「滝之」とも表記)が流れている。江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に、並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡り、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれ、問屋場は仲之町に、一里塚は下台町にそれぞれ設置されていた。町並みは東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海側へ浜横町、海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がそれぞれあり、枝郷として斎藤分(神奈川町)、三ツ沢(青木町)があった。
台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介される名所で、神奈川沖の海は葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれた。浦島太郎伝説に因んだ「亀の甲煎餅」が名物とされたが、2005年(平成17年)以降提供している店舗は存在しない[1]。また、宮洲(栄町)の潮干狩りも名物であった。
1833年(天保4年)には、東日本では暴風雨災害以後、米価の高騰により、9月に神奈川宿で米騒動があったといわれている[2]。
1843年(天保14年)の『東海道宿村大概帳』によれば、人口5,793人、家屋1,341軒、本陣2軒、旅籠58軒[3]。旅籠の殆どは飯盛女を抱えた飯盛旅籠であったが、1859年(安政6年)の横浜開港で開業した港崎遊廓へ宿内の飯盛女50人が官命により送られてから飯盛旅籠は衰退、後述の大火もあり、埋立地に集められ、反町へと移転してゆく[4]。
開港時は、宿内の寺院に間借りする形で欧米諸国の在外公館や宿舎が置かれたが、横浜村に外国人居留地が整備されて1861年までには全て移っていった[5]。
1868年(慶応4年)1月7日昼頃、仲之町の桑名屋清兵衛方で火災が発生、南西の強風により神奈川町のみならず北東の新宿村・西子安村・東子安村も焼き払い、夕刻生麦村に至って鎮火、1,200戸余を焼失させた所謂、桑名屋火事という[6][7]。1923年(大正12年)の関東大震災では、多くの建造物が焼失か倒壊。更に1945年(昭和20年)の横浜大空襲では東神奈川駅が爆撃目標のひとつにされ、殆どが灰燼に帰した。これらにより、歴史的遺産や伝記類の殆どが失われている[8]。
そのため江戸時代の面影を辿るのは難しいが、旧東海道は、国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町から上台橋を経て、楠町から環状1号線に沿って浅間町(旧芝生(しぼう)村)へと続いていた[8]。
行政区画は、1889年(明治22年)に神奈川町・青木町・芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市へ編入された。
神奈川湊
神奈川湊(かながわみなと)は、武蔵国橘樹郡小机領(神奈川県横浜市神奈川区)にあった港である。
神奈川湊が記録に現れるのは鎌倉幕府が置かれた13世紀以降であるが、以前から東京湾内海交通の拠点として、六浦・品川・富津・木更津などとともに、当地に港が存在したことは確認されている[5]。
神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となり、江戸時代に東海道が整備されて宿場が置かれると、神奈川宿と神奈川湊は幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った[9]。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、袖ヶ浦を隔てた南に戸部湊、野毛湊があった。
1858年(安政5年)小柴沖に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていたが、街道を通行する日本人と入港する外国人との紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、横浜港として開港した。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。
名所・旧跡
東海道沿い(江戸見附から)
- 長延寺跡 - 江戸見付とされた後、旧オランダ領事館も兼ねた。国道15号拡幅で1966年緑区三保町に移転、跡地の一部は神奈川通東公園になっている。
- 笠䅣稲荷神社 - 天慶年間(10世紀半ば)の創建と伝わる。
- 良泉寺 - 故意に屋根を壊し修理中を口実に外国人宿舎になることを断ったという逸話を持つ。
- 能満寺 - 漁師が海中から拾い上げた虚空蔵菩薩を祀ったと伝わる。
- 神明宮 - 能満寺境内にあったが、明治初の神仏分離により分かれる。
- 上無川跡 - 水が少なく上流が定かでなかったため上無川(かみなしがわ)と呼ばれ「神奈川」の由来の一説となった小川。関東大震災後の復興で埋め立てられた。
- 慈雲寺跡 - 敷地を神奈川小学校用地として市へ譲渡し、1925年港北区仲手原へ移転。
- 東光寺 - 本尊は太田道灌の守護仏と伝わる。
- 妙仙寺跡 - 横浜鉄道海陸連絡線(廃線)敷設のため1908年港北区菊名へ移転して妙蓮寺となる。
- 金蔵院 - 醍醐寺三宝院の勝覚が1087年に創建。
- 熊野神社 - 金蔵院と同年に勝覚が権現山に創建、当地へ遷座。
- 神奈川御殿跡 - 将軍の上洛や鷹狩の際の宿泊施設。17世紀半ばに廃止。旧地名の仲木戸は御殿の木戸があったことに因む。
- 神奈川地区センター - 高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。
- 成仏寺 - 旧アメリカ人宣教師の宿舎で、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンらが滞在していた。
- 慶運寺 - 旧フランス領事館。末寺の観福寺(廃寺)から移管された、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる観音像を安置する。
- 神奈川本陣跡 - 石井家が任命されており、石井本陣とも言われる[8]。
- 高札場跡 - 神奈川地区センター前に再現。
- 滝の川・滝の橋 - 神奈川宿の中央を流れる川。
- 浄瀧寺 - 旧イギリス領事館。
- 青木本陣跡 - 鈴木家が任命されており、鈴木本陣とも言われる[8]。
- 宗興寺 - 宣教師ヘボンが療養所を開いていた。
- 神奈川の大井戸 - 江戸時代には東海道中の名井戸に数えられた。井戸水の増減で明日の天気がわかるとされ、「お天気井戸」の異名があった。

- 権現山 - 本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がっていた急峻な山。台場建設用土砂採掘や鉄道建設用開削で削られ、山頂地点は幸ヶ谷小学校になっている。
- 洲崎大神 - 源頼朝が安房神社を勧進して1191年に創建。
- 普門寺 - 旧イギリス士官宿舎。
- 甚行寺 - 旧フランス公使館。
- 青木橋 - 新橋-横浜間に開通した鉄道の切通しにより東海道が分断されたため1870年に跨線橋として架けられた。鉄道と同年開業の神奈川駅 (国鉄)は橋の南側にあった。
- 西向寺跡 - 普化宗の寺院で、1871年新政府により廃宗廃寺となる。本覚寺内に西向寺虚無僧之碑が残る[10]。
- 本覚寺 - 旧アメリカ領事館。領事館員が塗った日本初のペンキ塗装の山門が現存する。生麦事件で斬られたイギリス人2人が逃げ込んだ場所でもある。
- 陽光院跡 - 1914年に敷地を売り払って同区三ツ沢南町へ移転。
- 三宝寺 - 弘法大師作と伝わる本尊の薬師如来立像は横浜大空襲で焼失。歌人でもある弁玉が住職を務めていた。
- 神奈川一里塚跡 - 日本橋から七つ目の一里塚。
- 大綱金刀比羅神社 - 平安時代末期の創建と伝えられ、飯綱社と呼ばれた。金毘羅社を合祀。
- 田中家 - 歌川広重の絵などに描かれている旅籠「さくらや」の跡に1863年創業した料亭。坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていた。
- 神奈川台関門跡 - 開港後の外国人殺傷事件を受け、警備強化のため設置された関門[8]。
- 上台橋 - 市道の切通しにより東海道が分断されたため1930年に架けられた[8]。
- 現在地不明
- 神奈川陣屋跡 - 江戸幕府直轄領の付近一帯を所管する機関であった。