元禄14年(1701年)3月14日、母方の従弟にあたる播磨赤穂藩主浅野長矩が江戸城内にて吉良義央に斬りつけ、切腹処分となる。浅野長矩の実弟の浅野長広も閉門処分となり、氏定や安部信峯ら従兄弟の大名達も連座して出仕を止められた。その後、赤穂城収城を前に浅野家筆頭家老大石良雄は、月岡治右衛門と多川九左衛門を使者として「我が藩は無骨な家臣どもばかりなので、上野介様への処断がはっきりしないと開城を納得させられない」旨の、すなわち吉良義央への処分を求める嘆願書を幕府の収城目付の荒木政羽と榊原政殊に提出することを試みた。しかし月岡と多川は収城目付と行き違いになってしまい、そのまま江戸へ到着した。彼らは大石の「江戸家老には見せるな」という命令に背いて江戸家老の安井彦右衛門にこれを相談し、安井は浅野家親族の氏定にこれを報告した。驚いた氏定は「開城こそが公儀を重んじた内匠(浅野長矩)の意思のはず」とする内容の書を月岡と多川に渡し、大石に届けさせた。
赤穂藩内の家臣らによる籠城論争は、お家再興・敵討ちを前提とした開城でまとまったため、赤穂城は素直に開城された。赤穂藩浅野家の改易処分後、氏定もまた親族の赤穂藩浅野家再興のために尽力した。元禄14年(1701年)7月には大石良雄・小野寺秀和らを大垣に招いて浅野家再興について議した。元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広は正式に安芸広島藩お預かり処分となり、赤穂藩浅野家の再興(相続)の可能性は限りなく無くなった。大石良雄らは吉良義央に対する仇討ち計画を本格化させ、同年末に赤穂事件を起こす。