戻橋 (映画)
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概要
マキノプロが歌舞伎の「戻橋」に材を採って製作した活動写真。マキノ初のオール・トーキー作品であり、これは「日本初の本格トーキー作品」と呼ばれる昭和6年の『マダムと女房』(五所平之助監督)より2年早かった。
「マキノトーキー映画第一回作品発表 戻橋」と題された本作のプログラムには「解説」として、「これはマキノ発声映画第一回発声作品」であり、「オールトーキー」である旨が断られ、続いて以下の一文で締められている。
その全き科学的技術は日本映画界の驚異として噂さるるであろう。
1929年(昭和4年)5月9日、東京の新宿武蔵野館でマルセル・シルヴァー監督の短篇トーキー『進軍』(Marching On)、『南国の唄』(Belle of Samoa)が公開された[1]。この話をキネマ旬報誌の記者から聴いた牧野省三は、同2作のようなフォックス映画社のムーヴィトーン(en:Movietone sound system)ではなく、世界初のトーキーである『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)の採った「ヴァイタフォン」方式の研究を始めた[1]。『ジャズ・シンガー』は日本ではまだ公開されていなかった[2]。
当時すでに、皆川芳造が、リー・ド・フォレストが開発したフォノフィルム(en:Phonofilm)を日本で実用化していたが[1]、上映館では活動弁士と楽隊の生演奏の全盛時代であり、設備を入れ替えるのは容易なことではなかった[1]。牧野がヴァイタフォン的な「ディスク式トーキー」を採用したのはその理由による[1]。本作は、東京でのトーキー日本初上映のわずか2か月以内に完成、同年7月5日に浅草・日本館を皮切りに全国公開にこぎつけ、大ヒットとなった[1]。
牧野自身は、「ディスク式トーキー」の音響に不満足で、フォノフィルム的なトーキーの時代が来ると、本作を監督した息子のマキノ正博に語った[1]。牧野は本格的なトーキー時代の到来を知らずに、本作公開の20日後、同月25日に他界した[3]。皆川がミナトーキーを立ち上げるのは1933年(昭和8年)[1]、マキノ正博がマキノトーキー製作所を設立するのは1935年(昭和10年)のことであった[4]。