日本残侠伝
From Wikipedia, the free encyclopedia
キャスト
- 中山秀次郎(小頭):高橋英樹
- 黒髪の銀次(銀寿司大将):長門裕之
- 木曽の吾作:津川雅彦
- おせい:南田洋子
- キミ:山本陽子
- 弘子:岩井友見
- 春代:梶芽衣子
- 銀流しの梅吉:川地民夫
- 岩田:深江章喜
- 喧嘩寅松:郷鍈治
- おくま:田中春男
- 弁天徳(代貸):杉江廣太郎
- 十手亀:柳瀬志郎
- オンボロ安造:榎木兵衛
- 平公:青木富夫
- 村井:雪丘恵介
- 橋場の辰吉:久遠利三
- 龍神一家子分:黒田剛
- 署長:小泉郁之助
- おさき:重盛輝江
- 女郎屋の女将:堺美紀子
- お滝:新井麗子
- 善公:桂小かん
- 警官・龍神一家子分 : 荒井岩衛
- 人足:千代田弘
- :小林亘
- 刑事:伊豆見英輔
- 人足:高橋明、水木京一、近江大介、瀬山孝司
- キズ竹:晴海勇三
- 人足:光沢でんすけ、山岡正義
- 龍神一家子分:北上忠行、榊功、佐藤了一
- おげん:高山千草
- 長屋住人:深町真喜子
- 難波市:葉山良二
- 大場(東京市会議員):須賀不二男
- 角芳の旦那:三島雅夫
- 江戸常五郎: 水島道太郎
- 粂之助:伴淳三郎
※以下ノンクレジット
スタッフ
製作
赤字続きで、1969年始めに撮影所も売却し、いまにも潰れるのでないかとウワサされた日活は[8][9]、フリーの石井輝男を招聘したり[10]、東映東京撮影所の園田実彦プロデューサーを引き抜いたりした後[10]、この年の夏から製作担当・堀雅彦常務製作本部長が、日活お家芸の"青春路線"を中止させ[11]、「なんでもかんでも東映のマネをしろ」とプロデューサーに厳命し[9][11]、題名から内容まで徹底的に東映作品のマネをした映画製作を決定した[5][9][11][12][13]。マキノは前作『日本侠客伝 花と龍』ロケ中の北九州で骨折し[14][15]、無理して撮影したため症状を悪化させ苦しんでいた[14]。このタイミングで日活の堀雅彦製作本部長から、東映の岡田茂企画製作本部長に東映任侠路線の立役者の一人であるマキノ監督[3]の貸し出し要請があり[14][15]、岡田はマキノが身動き出来ないことを承知で日活にマキノをレンタルした[14][15]。岡田から電話があった翌日に日活の高木雅行プロデューサーがマキノ宅を訪れ説得[15]。さらに翌日、俳優係が女優を二人連れてマキノ宅を訪れ、「堀雅彦製作本部長から、この二人のうち、一人を必ず出演させて欲しいと言われて来ました。どちらがいいですか?」と言われた[15]。この二人のうちの一人が太田雅子で、クランクイン前に堀製作本部長から「太田雅子をこの映画から改名させたい。日活の今後のスターにするつもりです。マキノさんに名付け親になっていただきたい」と頼まれ、マキノ監督が姓名判断に頼んで梶芽衣子と改名した[15]。日活は梶を大々的に売り出そうとしたが、上手くいかず[15]。梶がスターダムにのし上がったのは、東映の「女囚さそりシリーズ」であることはよく知られるところである[15]。
キャスティング
女優が足りないのは、当時の五社共通の悩みであったが[16]、とりわけ深刻なのが日活だった[16]。浅丘ルリ子は他社出演を続け[16]、吉永小百合とは冷戦状態[16]。松原智恵子や和泉雅子といった比較的人気のある青春スターは、テレビドラマで忙しく、とても映画どころではない[16]。"第二東映"とカゲ口を叩かれながらも『儲かることはいいことだ』とばかり、ひたすら任侠路線を突っ走る日活に青春スターの割り込む余地はない[13]。日活としては松原智恵子に、藤純子や江波杏子の向うを張って女賭博師になって欲しかったが、松原に断固拒否された[16]。当時の日活は出演料がいつ貰えるのか分からない状況[16]。テレビはすぐに出演料が振り込まれ、さらに人気を得るにはテレビの方が手っ取り早かった[16]。外人部隊の隊長格だった扇ひろこを招集したのもこうした社内事情からで[16]、脱いで貰えるかを期待して招集した大門節子には「ハダカになりません」ときっぱりと断られた[16]。そんなこんなで仕方なく太田雅子、こと梶芽衣子をヤクザ女優に仕立てることに相成った[16]。また、本作に出演する津川雅彦がデヴィ・スカルノとの不倫騒動でマスメディアを賑わしていたため[16]、津川とデヴィとの共演を画策したが、これもデヴィに断られた[16]。
撮影
1969年7月11日クランクインで、15日間という超特急の撮影[17]。さらに主演の高橋英樹はNHK出演の合間の撮影で、正味7日間の撮影[17]。山本陽子は初日の1日だけ[17]。マキノ監督の甥・長門裕之が山本にえらく入れ込み、朝までかかってもいいから1日で山本の撮影を終わらせて欲しいとマキノに頼んで来た[17]。山本の芝居がとてもよく、高橋の出演場面を少なくし、山本に重点を置くことにし、その場で脚本を変更、メモを作って大事なセリフを書き山本に渡した[17]。すると山本の評判は撮影所長に伝わり、セットは見学者で一杯になったという[17]。山本は兄役の長門裕之との別れ、7分30秒の長回しを見事に演じ切った[17]。結局、全8000フィートのうち、1100フィートを山本の出演シーンに充て、これを1日で撮り切った[17]。
浅草凌雲閣が通りの向うに見える等、大正12年の浅草の町を再現したセットでほとんど撮影されているが、冒頭と三分の一あたりで出る木場のシーンとラストの橋だけがロケと見られ、木場のシーンは撮影当時まだこんな大きな場所が残っていたのかと驚かせる。
タイトル
日活は本作のタイトルに高倉健主演の東映二大任侠ヒットシリーズ「日本侠客伝」と「昭和残侠伝」をミックスさせて『日本残侠伝』というタイトルを付け、タイトルまでパクった[14]。東映の任侠映画のタイトルも岡田が全部付けていたから[18]、これを知った大川博東映社長から怒鳴られた岡田は、マキノに電話を掛けて「その題名で撮るのはやめてくれ」と抗議したが、マキノは「何を云ってんのや、日活に頼まれてわしを女郎みたいに売っというて、日活が作った題名を何でわしにやめろって云うんだ。わしの付けた題名やない。そんなこと、わしに文句付けんで、お前とこで日活に云え」と言い返し[14]、岡田が堀常務に抗議したが「題名を変えることはお断り致します」ときっぱりと言われた[14]。マキノは岡田を苦手にしていたため[19]、しばし溜飲を下げた[14]。マキノは1971年に岡田が東映の社長に就任すると、東映を退社した[14]。