房知温
From Wikipedia, the free encyclopedia
若くして勇気と力量があり、兗州・鄆州に属して、赤甲軍都官健となった。朱全忠の将の葛従周が泰寧軍節度使となると、知温は選抜されて麾下に置かれた。朱全忠の将の牛存節が天平軍節度使となると、樗蒲を好んで、知温は樗蒲を得意とすると推挙されて牛存節の側近に仕えることができた。平盧節度使の王師範が劉鄩を派遣して兗州に拠らせると、朱全忠は牛存節に命じて兵を率いて劉鄩を討たせた。知温が夕方に出奔してくると、牛存節は喜んでかれを受け入れた。翌日の夜に知温は良馬1頭を盗んで、再び兗州に入城し、劉鄩により裨将に抜擢された。劉鄩が降伏すると、知温は匡国軍節度使の劉知俊に属し、克和軍使に任じられた。劉知俊が岐に逃れると、知温は魏博節度使の楊師厚に転属し、馬歩軍校となり、随駕指揮使に昇進して、検校司空を加えられた。晋王李存勗が魏州に入ると、知温は李紹英の姓名を賜った。天雄軍馬歩軍都指揮使に転じ、検校司徒・澶州刺史・行台右千牛衛大将軍を加えられた[3][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が後梁を平定すると、知温は曹州刺史・貝州刺史を歴任し、東北面行営蕃漢馬歩軍都虞候をつとめ、瓦橋関に派遣されて駐屯した。李嗣源が鄴都から洛陽に入ると、知温は王晏球とともに率先して李嗣源のもとに赴いた。李嗣源により義成軍節度留後に任じられた。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、知温は泰寧軍節度使に任じられた。天成2年(927年)、北面行営招討使をつとめ、蘆台軍に駐屯した。知温は盧文進招討の功により特進・同平章事を加えられた。烏震が河北道招討副使に任じられ、知温に代わって蘆台軍に赴任してくると、知温は烏震に怒って牙兵を扇動して殺害した。次将の安審通が騎兵を率いて黄河を隔てて動かなかったので、知温は黄河を渡って安審通と結び、反乱軍を追っていると上奏した。朝廷は知温の反乱討伐を認めたので、知温は鄴都で軍士とその家族の老幼数万を殺し、そのために漳水が血の色に染まった。まもなく知温は武寧軍節度使に転じ、侍中を兼ねた。天成3年(928年)、荊南の高季興に対する討伐の兵が起こされると、知温は荊南招討使に任じられ、知荊州軍州事をつとめた。ほどなく母が死去すると、喪が明けないうちに、知温は雲麾将軍として復帰し、喪服をつけたまま従軍したが、功績のないまま帰還した[4][5]。長興元年(930年)、天平軍節度使となった[6]。長興3年(932年)、平盧節度使に任じられ、中書令を兼ねた[7]。応順元年(934年)、開府儀同三司・検校太師を加えられた[8]。清泰元年(同年)、東平王に封じられた[9]。
後晋の天福元年閏11月26日(937年1月11日)、青州で死去した。太尉の位を追贈され、瑕丘県に葬られた[4][10]。