手子后神社 (神栖市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
位置
北緯35度44分53.2秒 東経140度49分34.8秒 / 北緯35.748111度 東経140.826333度座標: 北緯35度44分53.2秒 東経140度49分34.8秒 / 北緯35.748111度 東経140.826333度
主祭神
手子比売命
| 手子后神社 | |
|---|---|
|
拝殿 | |
| 所在地 | 茨城県神栖市波崎8819 |
| 位置 | 北緯35度44分53.2秒 東経140度49分34.8秒 / 北緯35.748111度 東経140.826333度座標: 北緯35度44分53.2秒 東経140度49分34.8秒 / 北緯35.748111度 東経140.826333度 |
| 主祭神 | 手子比売命 |
| 社格等 | 旧村社 |
| 創建 | 神護景雲年間(767年-770年) |
| 別名 |
手子崎神社 天宮社、神遊社、常陸原明神 |
| 例祭 | 旧暦6月15日周辺土日(大潮祭) |
| 主な神事 | 鎮守祭(旧暦2月1日) |
| 地図 | |

手子后神社(てごさきじんじゃ)は、茨城県神栖市波崎にある神社。神遊社の古名があり、鹿島神宮末社に属した時期は天宮社と呼ばれていた。古い地誌は手子崎神社の表記を使っている。常陸原明神という俗称を記した観光地誌もある[1]。港町の鎮守であり、漁師の崇敬が厚い。旧社格は村社。
常陸国風土記の記述
- 手子比売命
- 漁師の崇敬が厚く、鎮守祭(旧暦2月1日)には出漁を避けることで、この時期の時化から逃れてきたという。古くは初出漁船や遠隔地に出漁する漁船は、船出前に利根川の明神下で無事を祈った[2]。
- 鹿島志に、旧記に「神遊社」ともいい、「大神の御女の神」が祭神とある。
- 鹿島神宮伝記に、「本社の巽に当り、天宮社あり、手子妃と申し、大明神の女と申す」と記述がある(大日本地名辞書)。
- 新編常陸国誌は、祭神は鹿島神宮の御女ではなく、常陸国風土記の「海上の安是の嬢子」ではないかとする考察を付している。手子は女子の愛称であり、万葉集に真間の手児奈、石井の手児、左和多里の手児等の例があり、また地名とした例に、駿河の手児の呼坂や手子の浦(田子の浦)等を挙げている。
- 大日本地名辞書は、「海上の安是の嬢子」を祀る社であり、童子女の松原の遺称地であることは疑いないとしている。また童子女が松樹になったという部分は、その墓を意味すると考察している。
常陸国風土記の香島郡の条に、昔、童子女の松原というところに、俗にかみのをとこ、かみのをとめという年少童子女がいたという話が記されている[3]。
童を那賀の寒田の郎子(いらつこ)、女を海上の安是(あぜ)[4]の嬢子(をとめ)といった。容姿端麗で郷里に名声を響かせ、互いにそれを聞いて惹かれるようになった。月日を経て、嬥歌で二人が偶然出会い、歌を交わし、人目を避けるため松下に隠れて相語らった。やがて夜が明け、二人は人に見られることを恥じて、松の樹になった。郎子を奈美松、嬢子を古津松という。
波崎には、常陸国風土記の物語に因んだ「童子女の松原公園」がある[5]。
境内社

茨城県神社写真帳には下記の7社が記載されている。
境内案内板には厳島神社、浅間神社、稲荷神社、天満宮、金刀比羅宮の5社のみが記載されている。


