改定律例
From Wikipedia, the free encyclopedia
1870年(明治3年)の新律綱領・仮刑律の施行後、日本政府は貿易・外交などのため欧米と対等の人権基準を設ける必要に迫られていた。同年までに華族制度が発足して身分制度は設置されていたが[1]、1871年(明治4年)には身分の異なる者同士の婚姻が自由化された[2]。
政府は1873年(明治6年)1月に廃城令を発し、2月には江戸期に法制化された敵討(仇討ち)を復讐禁止令(太政官布告第37号)により禁止した[注釈 1]。
改定律例は1873年(明治6年)6月13日に布告され、死刑になる罪種を祖父母父母謀殺・官吏謀殺・妻妾故殺・尊長故殺などに限定した[3]。終身懲役を導入したため、少なくともこの年のみで死刑を回避された者が228人いた[4]。これとは別に切腹を含む閏刑が、禁錮刑に統一される形で廃止された[注釈 2]。なお、禁錮刑は自宅で監禁する刑であり、明治7年6月24日に布告された明治7年太政官布告69号[6]により禁錮から禁獄へ刑罰名称が変わったが、引き続き自宅での監禁が明治11年4月5日に取り止めるまで引き続き行われた[7][8]。
また、同年7月には関東で死刑執行場であった小塚原刑場が廃止され、火葬禁止令(太政官布告第253号)も公布された[9][注釈 3]。同年11月には井上毅の招聘によりギュスターヴ・ボアソナードが来日して太政官法制局御用掛に就任しており、以後の改正に関わった[11]。
構成
刑罰
→改定律令の刑罰については「刑法_(日本) § 明治初期の刑法典」を参照