教良寺
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| 教良寺 | |
|---|---|
| 大字 | |
北緯34度16分52.64秒 東経135度31分36.58秒 / 北緯34.2812889度 東経135.5268278度座標: 北緯34度16分52.64秒 東経135度31分36.58秒 / 北緯34.2812889度 東経135.5268278度 | |
| 座標位置:狩場明神付近 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
|
| 郡 | 伊都郡 |
| 市町村 | かつらぎ町 |
| 人口情報(令和元年12月末) | |
| 人口 | 127 人 |
| 世帯数 | 53 世帯 |
| 郵便番号 | 649-7132 |
| 市外局番 | 0736 |
| ナンバープレート | 和歌山 |
教良寺(きょうらじ)は和歌山県伊都郡かつらぎ町の大字[1][2]。郵便番号は649-7132[3]。世界遺産である紀伊山地の霊場と参詣道を構成する高野山町石道や三谷坂が通っている。
小字
歴史
古代は揖理郷に属し、官省符荘であった[8]。994年(正暦5年)7月6日に落雷によって御影堂を除く諸堂が焼失し危機に陥った高野山に対して東三条院が教良寺を含む六箇七郷を寄進したことで高野山の寺領となり、以後江戸時代まで高野山の寺領となっている[9][10][11]。室町時代には山崎、宮本、平沼田と共に小河内郷を構成していた[12]。
江戸時代には紀州藩と高野山によって支配されており、周辺の山崎村、三谷村、兄井村、寺尾村、皮張村、平沼田村、九度山村と共に八箇組と呼ばれる行人領であった[13][14][15]。笠田や名手では入会の山林をめぐって激しい山論が繰り広げられたが、教良寺と隣接する三谷、山崎は山札関係にあった[13]。
1869年(明治2年)8月17日に高野山およびその寺領は堺県の一部となる[16]。しかしその翌年の1870年(明治3年)5月には旧高野山寺領が新設した五條県の管轄に改められたことで五條県の一部となる[14]。1871年(明治4年)に戸籍法に基づき施行された大区小区制では教良寺村は第3大区第2小区に属した[14]。同年11月22日に五條県が廃止され奈良県が設置された際に教良寺村を含む旧寺領は和歌山県の管轄となり、同県の第4大区第5小区(通称九度山組)となったことで落着した[8][14]。
1884年(明治17年)の戸長制度の改革後は寺尾村天女寺に役場を置く寺尾村外13ヶ村(後に見好村となる14ヶ村)に名を連ねており、1889年(明治22年)2月の町村制の施行に伴って山崎村、教良寺村、三谷村、兄井村、寺尾村、皮張村、平沼田村、東渋田村、西渋田村、島村、星川村、星山村、御所村、日高村の14か村が合併したことで見好村の大字となる[8][14]。
1958年(昭和33年)7月1日に見好村が伊都町、妙寺町と合併したことでかつらぎ町が誕生し、同町の大字となり現在に至る[8]。
地名の由来
紀伊続風土記には古寺号の名残であると記載されており[8]、一節には弘法大師が当地を訪れた際に名付けたともいわれている[8][17]。柳田国男は紀伊続風土記の記述に対して由緒深い高野山の北麓にある当地で興廃についての記述が完全に埋没したとは信じがたいとして各地の同様の地名のように、「清ら木」や「清ら石」即ち霊木や霊石から来るものでないかとしている[18][19]。アイヌ語の研究を行っていた木村圭一は教良寺をウバユリのあるところ(Kiu-oro-ushi,Kiu-oro-ke)と解している[20]。
沿革
- 1869年(明治2年)8月17日 - 高野山およびその寺領が堺県の一部となる[16]。
- 1870年(明治3年)5月 - 旧高野山寺領が新設した五條県の管轄に改められたことで五條県の一部となる[14]。
- 1871年(明治4年)11月22日 - 五條県が廃止され奈良県が設置された際に教良寺村を含む旧寺領は和歌山県の管轄となる[8][14]。
- 1889年(明治22年)2月 - 町村制の施行に伴って山崎村、教良寺村、三谷村、兄井村、寺尾村、皮張村、平沼田村、東渋田村、西渋田村、島村、星川村、星山村、御所村、日高村の14か村が合併したことで見好村の大字となる[8][14]。
- 1958年(昭和33年)7月1日 - 見好村が伊都町、妙寺町と合併したことでかつらぎ町が誕生し、同町の大字となる[8]。
産業
1874年(明治7年)の米、麦の産出量は米が280石、麦が60石であり、産物は棕櫚皮5万枚、柿200籠、五倍子150斤、梨150籠、蜜柑150籠、桐300貫、柴木(雑木)8000貫、楮300貫であった[14]。
かつらぎ町では戦後水田や畑が減少し、果樹園の面積が増加した[5]。昭和40年代の蜜柑の価格暴落によって多くの農家が転作を余儀なくされることとなったが、教良寺はそれ以前からネーブルオレンジの作付率が他部落に比べて非常に高かった[5][21]。果樹栽培によって豊かになった当地区であるが、明治30年代に当地で少年時代を過ごした西岡虎之助は当時のことを藁葺屋根に荒壁の家が大部分であり、食事も朝夕は茶粥に昼も麦八部の米、じゃこが上等のおかずとされるような寒村であったと振り返っている[22]。
風俗
成木責め
教良寺村では果樹(主に柿の木)の根元に牛玉札を括り付け、「ならかけろ」と叫びながら幹を牛玉杖で傷が付くまで打って責め立てた[8]。つまるところ、実がならないと切ってしまうぞと脅しているのである[8]。この風習は他の村でも行われた[8]。
接待場
高野山参りの参詣道である町石道が村の東峰を通っている当集落では参詣道沿いに立つ空海像のそばに釜を置いて参拝者に対して握り飯や茶をふるまった[4][8]。石像に1841年(天保12年)と刻まれていることからこの風習は少なくとも江戸時代には行われていたとされる[4]。1925年(大正14年)の南海高野線の開通により町石道を通る参拝者が減ったことでその風習も廃れたが、2021年(令和3年)には住民ら有志の手で90年ぶりに接待場が復活した[4]。なお、かつらぎ町誌では「せんぎょば」と表記しており施行場という意味であろうとしている[8]。
世帯数と人口
2019年(令和元年)12月末時点の世帯数と人口は以下のとおりである[23]。
| 世帯数 | 人口 | |
|---|---|---|
| 教良寺 | 53世帯 | 127人 |
