父祖同様に大友氏に仕えていたが大友氏は文禄2年(1593年)に改易される。
文禄5年(1596年)に通称を瀬右衛門と称して従兄弟の立花宗茂に仕官し同年4月28日に700石を拝領される。慶長の役では宗茂に御供して渡海する。文禄5年(1596年)の『文禄五年朝鮮御陣御家中軍役高付騎馬並鉄砲之覚』に「同(鉄砲)三挺 高七百石 斎藤瀬右衛門」と見える。
「慶長五年侍帳」(1600年)に「六百石 斎藤瀬右衛門」と見える。また同年10月20日の江上合戦に参陣し、被官4人と中間1名が戦死した他、自身も負傷し感状を拝領された。なお、この年、通称を左馬助と改めた。
その後、通称を市左衛門と改める。改易された宗茂が慶長8年(1603年)に棚倉藩主となると、棚倉藩士となって慶長11年(1605年)に南郷赤館のうち350石を拝領される。『立花家旧記』の「赤館御拝領後段々罷越衆」に「斎藤市左衛門統康 赤館御拝領節三百五十石」とある。
元和6年(1620年)に宗茂が柳河藩に再封されると御供して柳河藩士となり、350石を与えられ、法躰となって休無と改める。なお、『寛永六巳年宗茂公御代諸士高附帳』(1629年)に「二百石 斎藤休無」とある。
寛永9年(1632年)に子息に200石を分与する。寛永14年(1637年)の島原の乱では柳河城の留守番を命じられる。寛永16年1月(1639年)に60代で病死する。