新琴似大根

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新琴似大根(しんことにだいこん)は、かつて北海道札幌市北区新琴似でさかんに栽培されていたダイコン

品種

ダイコンには夏ダイコンと秋ダイコンの2種があり、新琴似で主に栽培されていたのは、このうち秋ダイコンであった[1]。播種の適期は、土用過ぎから8月5日ころまでとなっていた[2]

新琴似がダイコンの特産地となった理由のひとつは、ビール麦の後に秋ダイコンを植える二毛作が可能だったからである[3]。ダイコンは早く播きすぎると必要以上に大きく育ち、皮や肉質部が硬くなってしまう[3]。逆に遅く播きすぎると小型となり、収量が落ち込む[3]。その点、ビール麦を採った後にダイコンを播けばちょうどよい時期となることが判明したのは、営農における大きな希望であった[3]

この二毛作には、麦栽培のときに施した基肥もとごえの残りを、そのままダイコン栽培に転用できるという利点もあった[3]。ダイコンの発芽後に薄めた下肥を施すだけで十分だったのである[3]。麦の収穫後に間髪入れずダイコンを作付けするのは、暑い盛りの時季もあって重労働であったから、基肥を省略できるのは農家の救いとなった[3]

宮重大根
「青ダイコン」と通称される、新琴似で最も広く栽培された品種[4]
練馬大根
「白ダイコン」と通称される、円筒型長大の品種で、漬物や煮物に用いた[4]
理想ダイコン
練馬系で細首の品種[4]。下部が太めのため引き抜くときに折れやすいという欠点があり、太平洋戦争終結前後の一時期しか栽培されなかった[4]
時しらず(時なし)
二年子系[4]
みのわせ(美濃早生)
6月からこの種を播き、その後作として宮重大根を播く農家もあった[4]
上記の時しらずともども、花茎が伸びて芯に細い孔が空き、肉質が硬くなる「薹立ち」が少ない品種である[4]

販売

最初は担商かつぎあきないによって売り始められた[5]。ダイコンのほかにニンジンやカブなどをふごに入れ、天秤棒で担いで市街地に赴いたのである[5]。片方の畚に10貫(37.5キロ)、両方合わせて20貫(75キロ)を負って悪路を歩く、文字通りの重労働であった[5]

その後は、馬車を用いた販売に移行していった[6]。まず、朝早くからダイコンを抜く作業は、「出面取り」と呼ばれた日雇労働者にやってもらう[6]。その次の10本単位でまとめていく束ね作業は「うちの者」が担当し、多くの場合は農家の妻であった[6]。ダイコンを馬車に積み込むのは出荷の前日で、積み荷の見栄えをよくすることと、悪路の揺れにも荷崩れしないロープの掛け方を心掛けねばならない[6]。馬力が充分ならば、一台に1000本は積んだ[7]

朝5時ころになると、新琴似の各農家からダイコン馬車が繰り出し、四番通を抜けて、石狩街道または大学通(後の西5丁目樽川通)経由で札幌市街を目指す[7]。しかし、石狩街道の真ん中には馬車鉄道札幌軌道が走っており、ダイコン馬車は外側の創成川に沿った馬車道を通行することになっていたが、幅が狭いうえに路面は軟弱であった[7]。特に北25条あたりは泥炭地で、径150センチメートルの車輪が軸まで埋まることもある[7]。1日に少なくとも1台は横転してダイコンを散乱させる羽目になり、その度に皆で協力して積み直すのだが、泥にまみれたダイコンは品質が良くても半値しかつかなかった[7]。また、車輪が轍にはまって抜けられないときは、いったんダイコンを下ろして空馬車を前に進め、それから再度積み込むという手間がかかる[7]

札幌市内に到着すると、多くの農家はまずそれぞれの「お得意さん」にダイコンを届け、その次は札幌駅前通や、山鼻屯田へと出向いた[8]。売れ残りをさばくような場所もあり、東本願寺前や豊平の映画館「八二館」あたり、そして二条市場が該当した[9]。軍隊では月寒歩兵第25連隊旭川第7師団が納入先となり、そのほか石狩町江別町に顧客を見出す人もいた[9]

歴史

脚注

参考文献

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