日本ゼネラル・モータース
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略歴
概要
生産
組み立てに必要な機械は全て本国から持ち込まれ、アメリカ人の監修の下、日本人労働者が従事した。
1925年当時の日本の工業水準では、質の高い部品作りは望めないことから、当初はフォード同様、本国から全ての部品を輸入する、「コンプリートノックダウン生産」の形をとった。
シボレーブランドの貨物自動車、乗用車の生産がメインで、生産台数は、年間約1万台だった。
販売


梁瀬時代からGM車はブランド名で宣伝されていたため、フォードとの比較は「シボレー車対フオード車」としてなされていた。
シボレー車は頑丈で悪路に強かったことから、まだ自動車用の道路が十分に整備されていなかった日本国内で重宝されたばかりでなく、すでに軍用自動車補助法(1918年施行)があったにもかかわらず、日本の軍隊にも多数が納入された。
当時は、国産車はまだ少数派であり、路上のクルマのほとんどはGMかフォードだった。この2社は、クルマのつくりが良いだけではなく、各道府県に一箇所はディーラーを配置するなど、販売とサービス面でも強みをもっていた。
販売促進については、1933年(昭和8年)、京都の大沢商会の大沢善夫に発注し、マキノ・プロダクション出身の映画監督・金森万象、撮影技師・石野誠三にシボレーの宣伝映画『見よ! この先駆者を』を製作させた[2]。
戦後の国内自動車メーカー各社のディーラー網の充実は、GM、フォードのディーラー網から発展したものである。営業区域制、専売店制などのメーカーが販売会社をコントロールする仕組みは米国から輸入されたものだが、本家、米国では、『リベートをてこにした自動車メーカーの販売会社支配』は、1936年(昭和11年)にロビンソン=パットマン法が制定され、不可能となっている。また、日本では、他メーカーの車や部品を扱ってはならないと取引契約書に専売条項があるが、米国では反トラスト法違反となる。米国では競合他社の車も並べて販売でき、米国で日本の自動車メーカーが躍進できた背景にはこのことがある。[3]
1928年(昭和3年)に入社した神谷正太郎は、日本ゼネラル・モータースで販売広告部長を担当した後、1935年(昭和10年)に豊田自動織機製作所自動車部(のちトヨタ自動車工業、現・トヨタ自動車)に移籍した。豊田喜一郎から販売の一切を任され、1950年(昭和25年)の工販分離ではトヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)の初代社長に就任し、販売のトヨタを確立した人物であるが、その販売のノウハウは当初日本ゼネラル・モータースで身に着けたという経緯がある。
撤退
1936年(昭和11年)の自動車製造事業法施行により、国産メーカーのみに大量生産が許され、発展の余地がなくなり、1941年(昭和16年)、太平洋戦争開戦の年の日本軍の南部仏印進駐を受けてアメリカ政府による日本への各種経済制裁が施行されたことを受けて、日本での操業は中止された。
しかし、林譲治によると日本ゼネラル・モータと日本フォードの日本からの撤退は自動車製造事業法とは別の理由があるとしている。それは、1937年(昭和12年)9月にできた臨時資金調整法や輸出入品特別措置法などによって日本の産業統制が本格化したためであるという。これにより国内産業は「軍需に直接関係ある産業およびそれと密接な関係にある基礎産業」にのみ優先的な資源配分や資金提供が行われるようになった[4]。
自動車産業は重要産業と認められたものの、鉄鋼やゴムなどは統制品となり、トラックの生産が重視され、乗用車という車種自体の生産が事実上禁止とされた。これは乗用車を主力製品とする日本ゼネラル・モータと日本フォードにとっては大打撃となった[4]。だが、そんななかでも日本フォードは1939年(昭和14年)2月から1940年(昭和15年)3月まで日産自動車からの委任製造として満洲向けのバス・トラックを5000台ほど生産したという[5]。
1940年(昭和15年)8月、外資系企業は本国へ日本で稼いだ利益の送金が不可能にされた。これで外資が日本で商売をする意味も無くなり撤退が決定されたのである[4]。
第二次世界大戦後、ヤナセが日本市場の販売代理店を長期間つとめていたが、1995年(平成7年)、GMの各種ブランドの車の輸入販売・サポート・アフターサービスを行う会社日本ゼネラルモーターズ(現ゼネラルモーターズ・ジャパン)が設立された。