日本主観主義写真連盟

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日本主観主義写真連盟(にほんしゅかんしゅぎしゃしんれんめい)は、1956年5月に結成された日本の写真団体である。[1] オットー・シュタイネルトが提唱した「サブジェクティブ・フォトグラフィ」の日本での受容を背景に成立し、結成時には瀧口修造山本悍右阿部展也北代省三らが参加し、約40名が会員となった。[1][2]

日本における主観主義写真は、戦後写真界で優勢だったリアリズム写真運動に対する別の潮流として、1950年代半ばに現れた。[1][3] その直接の契機となったのは、1951年にドイツで始まったシュタイネルトの「サブジェクティブ・フォトグラフィ」が、1954年に日本の写真雑誌で紹介されたことである。[1][4] 日本では、この動向は本来「主観的写真」と訳しうるものであったが、「主観主義写真」として受容された。[1]

この運動には、戦前の前衛写真の実践者、戦後の新しい写真家、地方のアマチュアやプロの写真家、商業写真家、デザイナー、詩人、美術家など多様な人々が加わった。[3] そのため、日本主観主義写真連盟は、戦前の前衛写真の実践を戦後に接続する場の一つともなった。[4]

第1回国際主観主義写真展

同連盟は、1956年12月に日本橋高島屋で開催された第1回国際主観主義写真展を開催した。[1][3] この展覧会は、日本主観主義写真連盟と『サンケイカメラ』の主催により開かれ、シュタイネルトが選んだ14か国75名の海外作家の作品に、日本側の出品作を加えたものであった。[1][3] 日本人参加者は67名にのぼり、展覧会はその後、大阪福岡長崎金沢などの都市を巡回した。[1][3]

この展覧会については図録が刊行されていないが、以下の作家の参加が確認できる。[3][5][6]

参加作家

『別冊アトリエ』「新しい写真」

第1回国際主観主義写真展の図録は刊行されなかったが、翌1957年5月には『別冊アトリエ』第34号『新しい写真』が刊行された。[12][13] この号は第1回国際主観主義写真展と完全に一致する記録ではないものの、多くが重なる内容を伝える近接資料とされている。[3]

『日本写真史』では、同号の掲載例として今井壽惠《外は雪》、後藤敬一郎《作品・A》、阿部展也《きもの》《人間》などが挙げられている。[13] また、植田正治については、この号で「雪景」と「落日」が紹介されたことが確認できる。[7] さらに、主観主義写真運動に参加した作家のなかでも、奈良原一高や今井壽惠の作品は、この号において重要な位置を占めていた。[3]

位置づけ

日本主観主義写真連盟の活動は短命に終わったが、戦前の前衛写真の実践を戦後に接続しなおす試みとして位置づけられている。[4][1] とくに、山本悍右、後藤敬一郎、本庄光郎、平井輝七、吉崎一人ら戦前前衛の実践者と、石元泰博、奈良原一高、今井壽惠、一村哲也、植田正治、大辻清司、大西茂ら戦後の作家が同じ文脈で取り上げられたことは、1930年代の前衛写真が完全に断絶したのではなく、戦後にも別のかたちで再浮上していたことを示している。[5][6][4] 一方で、日本の主観主義写真は写真技法の方法論が前面に出やすく、運動としては1950年代末には勢いを失った。[1]

影響と継承

日本主観主義写真連盟の活動は短命だったが、戦後日本写真がリアリズム写真運動中心の潮流から、より主観的・象徴的で形式的実験を含む表現へ移行していく過程の一局面として位置づけられている。[1][4] 1957年の「10人の眼」展には、川田喜久治奈良原一高細江英公東松照明らが参加し、のちの写真家集団VIVO結成の契機となった。[14] ストイコヴィッチはVIVO世代を「リアリズムと主観主義の双方を継承した」新たな写真の章として位置づけている。[4]

脚注

参考文献

関連項目

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