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日本近代史

幕末以降の日本の歴史 From Wikipedia, the free encyclopedia

日本近代史(にほんきんだいし)では、江戸時代末期(幕末)以後の日本の歴史、特に1868年慶応4年/明治元年)以降について概略的に述べる。

概説

明治天皇。明治維新以後、日本では中央集権国家の形成と近代化政策が進められた。

日本近代史は、一般に幕末の開国と明治維新を起点として論じられる。ただし、近代の始期については、幕藩体制の動揺と国内的条件の形成を重視して天保期に求める見方、嘉永6年(1853年)の黒船来航と開国を画期とする見方もある。明治時代についても、字義どおりの明治改元から大正改元までとする用法だけでなく、歴史学上はペリー来航から大正政変ごろまでを含めて把握する見方がある[1]。終期についても、帝国主義段階への移行、第一次世界大戦後の社会変動、昭和20年(1945年)の敗戦と占領改革など、重視する基準によって異なる[2]

明治維新後の日本では、版籍奉還廃藩置県戸籍法地租改正徴兵令学制などの改革を通じて、旧藩を基盤とする分権的秩序が解体され、中央政府が土地・人民・財政・軍事・教育を把握する近代国家の基礎が形成された[3][4][5]。1889年には大日本帝国憲法が発布され、翌1890年に帝国議会が開設されたが、天皇大権、統帥権、貴族院、官僚制、軍部の制度的位置づけなどにより、議会政治には一定の制約があった[3][6]

経済面では、開港後の外国貿易を契機に、生糸輸出、綿糸紡績、製糸業、鉄道・海運・通信の整備、官営工場や民間企業の発達が進み、近代資本主義経済が形成された[7][8][9]。一方で、農村では地主・小作関係が広がり、都市では労働者層や中間層が形成された。この過程では、地主的土地所有の性格や、機械制工業の周辺で存続・再編された家内労働も、日本資本主義の構造をめぐる論点となった[10][11]。労働運動・農民運動・婦人運動・部落解放運動などの社会運動も展開した[12][13]

文化・思想の面では、文明開化、学校教育、新聞・雑誌、翻訳、演説、文学、美術、演劇、音楽などを通じて西洋文化の受容と日本文化の再編が進んだ。明治期には啓蒙思想・自由民権思想・国粋主義・キリスト教などが併存し、大正期には大正デモクラシー、民本主義、婦人運動、社会主義、都市大衆文化が広がった[14][15]。宗教面では、国家神道の形成、仏教・キリスト教・新宗教の再編が進み、敗戦後には信教の自由と政教分離を基礎とする制度へ移行した[16]

昭和初期には、金融恐慌・世界恐慌・農村不況・対外関係の緊張を背景に、政党政治への不信と軍部の影響力が強まった。満洲事変日中戦争国家総動員法大政翼賛会を経て、日本は戦時体制へ移行し、1945年の敗戦により大日本帝国憲法下の体制は解体された[6][4]

戦後は、連合国軍占領下で政治・経済・社会・教育・家族制度の改革が行われ、日本国憲法のもとで国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げる体制が成立した。その後、日本は主権回復、冷戦体制、高度経済成長、安定成長、バブル経済とその崩壊、少子高齢化、グローバル化、災害・感染症対応などを経験し、現代日本へと連続している[6][17]

江戸幕府の動揺と近代化の始まり

19世紀前半の日本では、幕藩体制の財政難、飢饉、農村・都市の社会不安、対外危機が重なり、江戸幕府の支配体制は動揺した。天保期には、幕藩体制の内部に近代化の前提となる商品生産や市場、教育、技術の蓄積が形成されつつあったとされる一方、嘉永6年(1853年)の黒船来航と開国は、日本が欧米列強を中心とする国際秩序に組み込まれる契機となった[2][7]

幕末には、開港と通商条約により外国貿易が始まり、物価変動や金銀比価の問題、尊王攘夷運動、幕府・諸藩の軍制改革などが進んだ。幕末の政局は、尊王攘夷運動から公武合体運動、討幕運動へと展開し、大政奉還王政復古戊辰戦争を経て、明治新政府による中央集権国家の形成へとつながった[1][8][4]

明治(大日本帝国憲法施行前)

明治初年には、版籍奉還廃藩置県戸籍法地租改正徴兵令学制などの改革が相次いで実施された。これらの改革は、旧藩を基盤とする分権的秩序を解体し、中央政府が人民・土地・財政・軍事・教育を把握する近代国家の基礎を整えるものであった[1][3][5][4]

同時に、政府は富国強兵殖産興業文明開化を掲げ、官営工場、鉄道、電信、郵便、学校教育、法典編纂などを進めた。こうした政策は、欧米列強に対抗しうる独立国家を形成するための改革であったが、急速な制度導入と負担増は、士族反乱、農民騒擾、自由民権運動などの社会的摩擦も伴った[1][7][9][12]

大日本帝国憲法下

明治

大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設により、日本では立憲制が開始された。もっとも、国務大臣は議会ではなく天皇に責任を負い、軍の統帥権も内閣・議会から相対的に独立していたため、議会政治には制度上の制約があった[3][4]

文明開化、殖産興業・富国強兵

明治期には、学校教育、新聞・雑誌、翻訳書、博覧会、洋風建築、鉄道・電信・郵便などが広がり、都市を中心に生活文化の変化が進んだ。同時に、官営工場や政策的金融を通じて繊維工業・鉱山・海運などが育成され、近代産業の基盤が形成された[14][18][19]

日清・日露戦争

日清戦争日露戦争は、軍事制度、財政、産業、外交に大きな影響を及ぼした。日清戦争後、日本は台湾・澎湖諸島を獲得し、中国に対して欧米列強と同様に不平等条約上の権益を持つ側へ転じた[20]。日露戦争後には韓国保護国化が列国に承認され、統監府設置を経て韓国併合へ向かう条件が整えられた[21]。国内では軍備拡張と産業振興が進み、軍部の地位が高まる一方、戦費負担や国際関係の変化も政治課題となった[4][22]

大正

第一次世界大戦と反動不況

第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦し、戦勝国の一員となった。大戦期には輸出拡大と輸入減少を背景に工業生産が伸び、海運・造船・重化学工業も成長したが、大戦後には反動不況、戦後恐慌関東大震災、金融不安が相次いだ。大正期は、好況と不況の落差が社会・政治に影響し、社会運動・労働争議・小作争議の頻発や無産政党の出現を促した時代としても位置づけられる[23][18][22]

政治面では、第一次護憲運動米騒動原内閣護憲三派普通選挙法の制定などを通じて、大正デモクラシーと呼ばれる政治・社会の動きが展開した。1925年には普通選挙法が制定され、有権者は大きく拡大したが、同時に治安維持法が制定され、社会主義運動・労働運動への取締りも強化された[24][23][3][12]

文化面では、都市中間層の拡大、新聞・雑誌・映画・ラジオなどの普及、文学・演劇・美術の新しい動向がみられた。大正期には衣食住の洋風化、職業婦人の出現、学問・文学の大衆化、大衆娯楽の隆盛などが進み、明治調に代わる時代色が形成された[23]。白樺派、新劇、プロレタリア文学、モダニズムなどは、大正期から昭和初期にかけての都市文化・思想状況と結びついて展開した[25][26][27]

昭和・戦前戦中

世界恐慌と政党政治への不信・軍部の台頭

昭和初期には、昭和金融恐慌世界恐慌、農村不況が重なり、政党政治への不信が高まった。昭和元年(1926年)から昭和5年(1930年)ごろまでは政党政治の全盛期である一方、金融恐慌と世界恐慌の波及により、独占資本主義の矛盾や階級対立が激化した時期でもあった[28]浜口内閣の金解禁後に不況は深刻化し、都市・農村の生活不安は社会運動や国家改造論、軍部・右翼の台頭と結びついた[6][22][12]

1931年(昭和6年)の満洲事変以後、軍部の政治的影響力は増大した。五・一五事件によって政党内閣の慣行は終わり、二・二六事件後には軍部大臣現役武官制が復活するなど、軍部の発言力がさらに強まった。満洲事変後、日本は満洲国を承認したが、リットン調査団報告書と国際連盟総会の勧告をめぐって国際連盟を脱退し、対外的孤立と戦時体制への傾斜を深めた[20][6][4]

国内では、治安維持法による思想取締りが強まり、マルクス主義者、労働運動・農民運動、自由主義的言論への弾圧が進んだ。学問・思想の分野でも、滝川事件天皇機関説事件津田左右吉事件などが起こり、戦時下の思想統制へつながった[29][15]

第二次世界大戦

1937年(昭和12年)の盧溝橋事件を契機に日中戦争が全面化すると、日本軍は華北・華中へ戦線を広げ、首都南京を占領したが、戦争は長期化した[20]。政府は国家総動員法を制定し、人的・物的資源、労働、言論、国民生活への統制を強めた。1940年(昭和15年)には大政翼賛会が成立し、既成政党は解党して、戦争遂行のための国民動員体制が整えられた[3][4][28]

1941年(昭和16年)12月、日本はアメリカ・イギリスなどと開戦し、太平洋戦争に入った。当初の軍事的拡大ののち、ミッドウェー海戦以後は戦況が悪化し、制海権の喪失、資源不足、空襲による生産設備・都市の破壊が進んだ。戦争末期には本土決戦体制が準備され、国民生活は徹底した統制と動員のもとに置かれた[4][18]

1945年(昭和20年)8月、広島・長崎への原子爆弾投下とソ連の対日参戦を経て、日本政府はポツダム宣言を受諾した。9月2日には降伏文書が調印され、明治以来の大日本帝国憲法体制と軍事機構は、連合国軍占領下で解体されていった[6][4]

日本国憲法下

昭和・戦後

連合国軍被占領時代

第二次世界大戦で敗れた日本は、台湾、朝鮮、南樺太、南洋群島などを失い、連合国軍の占領下に置かれた。朝鮮は日本の植民地支配から解放されたが、北緯38度線を境に米ソ両軍が分割占領し、のちに南北分断へ向かった[21]。占領期には、治安維持法の廃止、政治犯の釈放、婦人参政権、労働組合の結成奨励、教育改革、財閥解体、農地改革などが進められた[28][6][7]

1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)に施行された。憲法は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を柱とし、家族法・教育制度・労働関係などにも大きな変化をもたらした。1951年(昭和26年)に日本国との平和条約が調印され、1952年(昭和27年)の発効により、日本は主権を回復した[6][13][5]

連合国軍被占領期終結から冷戦終結まで

主権回復後の日本は、冷戦構造のもとでアメリカ合衆国との同盟関係を軸に再出発した。朝鮮戦争では、海上保安官や民間船員などが国連軍の作戦に参加し、軍需物資や駐留米軍向け需要による特需も生じた[30]

1950年代後半から1970年代初頭にかけて、日本は高度経済成長を経験した。所得倍増政策、重化学工業の発展、都市化、人口移動、家電製品の普及、東海道新幹線1964年東京オリンピック日本万国博覧会などは、高度成長期の社会変化を象徴した。一方、公害、交通事故、過密・過疎などの問題も深刻化した[17]

1970年代のオイルショック後、日本経済は安定成長へ移行した。産業構造は重厚長大型から加工組立・電子機器などへ比重を移し、1980年代には円高、貿易摩擦、内需拡大政策を背景としてバブル景気に至った[28]

平成

1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、翌8日に「平成」へ改元された[31]。冷戦終結後、日本は国際協力や自衛隊の海外派遣をめぐる議論を進め、政治面では1993年(平成5年)に55年体制が崩壊するなど、政党政治の再編が進んだ。

経済面では、1980年代後半のバブル景気が1990年代初頭に崩壊し、金融不安、企業再編、雇用慣行の変化、地方経済の停滞などが問題となった。2000年代には構造改革、中央省庁再編、規制緩和、グローバル化が進む一方、少子高齢化、格差、非正規雇用などが重要な社会問題となった[32]

2011年(平成23年)には東日本大震災福島第一原子力発電所事故が発生した[33][34]。2012年(平成24年)以後は自公連立政権が復帰し、経済政策、安全保障法制、選挙権年齢の18歳への引下げ、天皇退位をめぐる制度整備などが政治課題となった。

令和

2019年(平成31年)4月30日、退位特例法施行により明仁が退位し、翌5月1日に徳仁が第126代天皇に即位して「令和」に改元された[35]譲位による皇位継承は、光格天皇から仁孝天皇への譲位以来のことであった[31]

2020年(令和2年)以後は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行が政治・経済・社会に大きな影響を与えた[36]2020年東京オリンピックは2021年(令和3年)に延期開催され、2025年(令和7年)には大阪・関西万博が開催された[37]

令和期には、少子高齢化、人口減少、社会保障、感染症対応、災害対応、デジタル化などが引き続き重要な課題となっている[36][32]

関連項目

脚注

参考文献

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