日笠山貝塚
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発掘調査
この付近に、もしかしたら貝塚かもしれないという話は、1950年頃には出ていた[6]。その頃から貝殻や土器片が、地上に露出していた箇所が確認されていたものの、これが貝塚であるという確証は得られずにいた[7]。1962年に、この付近から出土した土器が、間違いなく縄文土器と確認できたため、加古喜市は高砂高校の生徒にも協力を求めて、幅1 m、長さ3 mの溝を試掘した結果、貝殻が層を成していると確認できた[7]。これを受けて、高砂市教育委員会が、1963年、1964年、1966年に発掘調査を行った[2]。
1964年から1966年にかけて行われた発掘調査では、縄文前期から晩期にかけての土器や石器、縄文晩期のものと推定される仰臥屈葬が発見された[8]。
調査の結果、小規模ながらも4層の貝層が確認された。この場所に含まれていた貝類の半分を、ハマグリが占めていた[9]。貝殻以外にもタイなどの魚骨、イノシシなどの獣骨も出土した[10]。さらに、縄文時代晩期の男性1体の骨が、屈葬されていた[11]。人骨は径約80センチ、深さ約40センチの穴に、足を抱きかかえるようにして埋められていた[12]。さらに、縄文土器や石器も出土した。しかし、住居跡は確認されていないため[13]、この地に定住はしていなかったと考えられる。恐らく、約1.5キロメートル離れた塩田遺跡などに居住地が有ったのではないかと推定された[13]。
この遺跡から採取された貝類遺骸については、加速器質量分析計を用いた放射性炭素による年代測定が行われており[14]、これにより縄文時代の生活様式や食文化に関する貴重な情報が得られている。
なお、断続的ではあるものの、縄文時代前期の後半から、縄文時代の晩期までと長い年月をかけて貝塚が形成されていったと判明した[10]。