昆支王
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『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)4月、兄の加須利君(蓋鹵王)により日本に遣わされた。その際、蓋鹵王の夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となった。7月宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。雄略天皇23年(479年)4月、百済の文斤王(三斤王)が急死したため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけた。これが東城王である、という。
『新撰姓氏録』では、飛鳥戸氏の祖とされ、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神として祀られている。
『三国史記』の 百済本紀文周王には、文周王3年(477年)4月に「王の弟の昆支を拝し内臣佐平と為す」とあるが、同年7月に「内臣佐平の昆支卒す」とある。
『宋書』百済伝に、百済王余慶(蓋鹵王)が大明2年(458年)に宋に上表文を提出し、百済の将軍11名が宋から将軍号を認められているが、その中の征虜将軍の号を受けた左賢王余昆を、昆支王と同一人物とする説もある。