昌平坂
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江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉は、学問や文化を振興する政策を進めた。その中で綱吉は、1630年(寛政7年)に上野忍丘(現在の上野恩賜公園付近)の地に、幕府の援助のもとで林羅山の私塾として創建されていた聖堂を、移転拡張することを決定した。綱吉は上野の地には寺が多く、また林家の私塾扱いであった聖堂が狭隘であったことを問題視していた。移転拡張先として神田台の一角である湯島の地が選ばれ、1691年(元禄4年)に移転が行われた[2][3]。
移転後、聖堂は「昌平黌」と呼ばれることになったが、「昌平」の名は儒教の祖・孔子の故郷である中国山東省曲阜の昌平郷にちなんだものである。聖堂の移転直前の1690年(元禄3年)12月、移転予定の聖堂周辺の坂は綱吉によって「昌平坂」と命名された[4][3]。
なお、綱吉が命名した昌平坂が具体的にどの坂を指しているのかについては、はっきりとしない。記録上でも聖堂の下、前後の坂というものと、聖堂前後の坂としている文献がある[5]。後述のように聖堂の東側境界の、神田明神からまっすぐ降りる位置にあった坂と、聖堂の南側にある坂が昌平坂と呼ばれていたと考えられている[6]。






