明倫歌集

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明倫歌集』(めいりんかしゅう[1])は、前水戸藩徳川斉昭が、人倫を明らかにする古今の和歌千首以上を選んだ歌集[2]版木は文久2年晩冬(1863年初[注 1])刻[3]。10巻5冊からなる[4]

従来の歌集は春夏秋冬恋雑の分類のものばかりで、忠君愛国の観点で選んだものはなかった。徳川斉昭は、人倫道徳を明らかにして修身の鑑とするために、みずからも選び、また小山田与清吉田令世前田夏蔭鶴峯戊申などに命じて広く歌集を渉猟させた。歌を選んで整理し、君臣父子夫婦兄弟朋友神祇国体・拾遺の10部門に分類し、明倫歌集を作った[5]

書名は和文で『人の道を明らむる歌集(うたふみ)』[6]、別書名を『五倫歌集』とも『明倫和歌集』ともいう。旧書名を『五倫和歌集』といった。五倫和歌集3冊は旧彰考館が所蔵している[4]

明倫歌集は、徳川斉昭が世道人心に有益とみなした和歌を古今の歌集から抽出したものである[7]。その編纂の背景には水戸学があった[8]

いわゆる水戸学は水戸藩主によって指導された。義公徳川光圀に始まり、後に烈公徳川斉昭が力を入れた。大義名分国体明徴とを根本とし、幕末に多くの志士を世に送り、明治維新に寄与した。水戸学にもとづく『大日本史』は大義名分を掲げ、国体に即した史観を示した。このほか国学の発達にも水戸学からの援助が大きかった。徳川光圀は大日本史編修と共に古典の研究を志し、難波の僧・契沖を援助して万葉集を研究させた。これにより国学の基礎が築かれた。万葉集初の全註・万葉代匠記は光圀に捧げられた。こうした国学の流れが水戸学とともに明治維新の原動力の一つとなった[8]

国学を大成した本居宣長玉鉾百首を詠んで国体の優美をうたった[8]。宣長の弟子たちは、宣長の思想を基盤として庶民教化に和歌を使用した。宣長の思想を活かすため、和歌の教訓的解釈を強調した。政教主義の観点から社会秩序の安定を説いた[9]鈴屋学(本居流国学)は地方に広まる過程で政治や教化との結びつきを強めていった。たとえば仙台藩士で藩の文教政策に関わった保田光則は、本居大平(宣長の養嗣子)の門人でもあった。保田光則の編んだ撰集『訓誡歌集』(文政10年(1827)序)は、幼年から成年に至る男性に向けて編まれた、新しい教訓歌集であった[10]

後期水戸学は、藤田東湖の父・藤田幽谷が創唱した。彼は町民出身で大日本史編修総裁に抜擢された。尊王攘夷の先駆者であった[11]。彼も万葉集を重んじた。万葉集は我が国の詩経であって、彼の国の詩に優り、正しく麗しいものだと評価していた。万葉集から歌を選んでこれを一種の経書とし、神武天皇の蘆原の歌にちなんで蘆原集と名づけようと提唱していた。徳川斉昭はこの事から明倫歌集の編纂を思いついたのではないかと言われる[12]

編纂と出版の経緯

水戸藩は天保年間(1830年~1843年)に明倫歌集の編纂を始めた[13]。藩主徳川斉昭が発案し、藤田東湖と吉田令世との協議を経て、歌集編纂のことが決まった[13]。編纂の目的は、日本固有の道徳が神代以来の伝統であることを和歌によって裏付けること、そして、それによって勅撰集として認められることであった。認められていたら500年以上ぶりの勅撰集になるはずであった[14]。歌集編纂は水戸藩における『大日本史』や『八洲文藻』などの編纂事業の延長であるとともに、天保・安政の藩政改革を背景とした士民教化の目的もあった。目的が2つあったため、編纂の方針は勅撰歌集の体裁をとるのか、あるいは子弟の教育の体裁をとるのか、2つの体裁の間で揺れ続けた[13]。勅撰歌集の体裁にしていたら春夏秋冬恋雑の分類になるところであった[5]

徳川斉昭は、政務の合間をぬって自ら歌を選び、人々にも選ばせた[15]弘道館に歌道方という部局を設けて、和歌・和文を教授させ、また明倫歌の撰集に従事させた[12]。しかし斉昭は弘化元年(1844年)4月18日に突然、幕府により江戸に召還され、ついで5月6日、隠居・謹慎の処分を受けた。藩政改革の行き過ぎを咎められたのである[16]。江戸の駒込で謹慎している間、投げやりにになって書き物も何もしなくなった。ただ、古い歌集を繰り返し読んで、その中に訓戒になるような歌を選んで附箋を貼って侍臣に命じて書き抜かせた。歌集の編纂だけは続けたのである[12]。吉田令世・鶴峯戊申・西野宣明・前田夏蔭などの江戸在住の国学者が歌集編纂に携わった[13]

歌の収集を命じられた小山田与清と吉田令世は完成前に死去した。ついで前田夏蔭と鶴峯戊申らが命じられたが、彼らも公務に忙しかったり老衰したりして、編纂事業に難渋した。最後は吉田令世の子・尚悳が整理した[15]。このほか西野宣明が編纂に携わり、自己の『松宇日記』に明倫歌集編纂のことを記録している[13][注 2]。また鶴峯戊申も記録を残している[13][17]

やがて明倫和歌集が完成した。序文は嘉永4年(1951年)秋、徳川斉昭の自序であった[6]。初め自分で起草して、吉田尚悳に修文させ、それをもとに自ら筆を執って清書した。達筆すぎて素人には読めない筆跡であった[12]

安政6年(1859年)8月27日、幕府は徳川斉昭に水戸での永蟄居を命じた。安政の大獄である[18]。大獄を主導した大老井伊直弼は翌年3月3日に桜田門外の変で水戸浪士らに殺害された[19]。この年、徳川斉昭は、吉田尚悳に命じて明倫歌集から百首を選んでカルタにした。奥女中たちの遊びにも正しい詞心を感得させようと考えたのである。大勢の女中が集まって遊ぶには百首では数が足らないということで、吉田尚悳にまた命じて、もう百首を選ばせた。合計二百首、カルタの枚数は四百枚になった。縁起をかつぐ女中たちが四(し)百を不吉な数だと言いあっていたら、斉昭が急死した[12]。万延元年(1860年)8月15日、月見の宴の後、便所で倒れ、薨去した[20]。享年61[2]

徳川斉昭薨去の翌年、文久元年(1861年)11月、松平頼位が明倫歌集の跋文を書いた[15]。松平頼位は水戸藩支藩の宍戸藩の前藩主であった[21]。いずれ世に広めようと置いてあった明倫歌集を、このたび堅木に彫らせて広く人々を諭すことにしたのである[15]。文久2年晩冬[3](1863年初[注 1])、藩校・宍戸脩徳館にて桜木に彫った[22]。10巻5冊を江戸の書肆・和泉屋金右衛門が発行した[4]。弘道館蔵版もあったが[13]、後世に伝わったのは宍戸脩徳館蔵版本である[12]。なお、宍戸脩徳館蔵版本に引用された歌を原歌集と突き合わせて校訂すると、往々にして歌にも作者にも間違いがあるという[23]。この蔵版は、明治初期にも印刷されたが、大正末期までには稀覯本になっており、また文字が達筆すぎて読み難い[7]

明倫歌集を出版した宍戸藩は、その3年後の元治元年(1864年)に取り潰された。天狗党の乱の際に、松平頼位の子で宍戸藩主の松平頼徳が、水戸藩主の名代として尊攘派水戸藩士を率いて天狗党の鎮撫に向かったが、逆に天狗党の側に立って戦ってしまい、幕府に釈明しに行って捕まって切腹させられ、宍戸藩も改易となったのである[24]。一旦潰された宍戸藩は、慶応4年(1868年)明治新政府によって復興された。明倫歌集の跋を書いた松平頼位が藩主に再就任した[21]

序文と跋文

明倫歌集は序文や跋文などを加えて出版された[2]。序文は徳川斉昭の自序である[6]。これによると徳川斉昭は次のように考えた。神代には、上は天皇から下は庶民に至るまで、清い真心をもって神々を祭った。神に習うままに、国は平和であった。ことさらに教えを立てることもなく、言挙げもしなかった。それでも儒教の五倫が総て神習いの中に備わっていた。そうであるので父母を尊び妻子を慈しんだ。大国主神の若妻のスセリ姫は、「定めたる吾が夫をおきて他に男はなし」と歌った。大伴氏の遠い先祖は武人で、「山行かば草むす屍、海行かば水づく屍」、天皇の命令のままに身を尽して山や海に死骸を晒せと歌った。神代を過ぎて人の代になっても神の習いを歌い継いできた。人々の心に表裏なく、神習いの真心を受け継いできた。名教を言い立てる彼の国よりも、はるかに優れていた。教えを創らなくても、世々に詠まれた多くの歌の中に自然と言葉に現われていた[6]

こう考えた徳川斉昭は、神習いの真心が現われた歌を集め、人にも命じて集めさせた。幼い子供も口ずさみ、古くからの真心に染まるようにと思い、更に整理選択した。天皇の御製にも憚らずこれを採り、土民の歌も捨てずに拾った。古く万葉集からそうしているので、自分も許されるだろうと考えた。歌はおよそ千首、巻は十巻。これを「人の道を明らむる歌集(うたふみ)」と名づけた。この歌集が世に広まり人々の心を染めて、細やかで勇ましい万葉ぶりに還し、国の光を増して海外をも照らし、国内に古の道を歌う人が多ければこの書はこれで終わらない、後世にも選び重ねて何千巻にもなれば、ついには外国人たちにも我が神国の道を諭すことになり、そうなれば幸いであると思った[6]

跋文

跋文は松平頼位が書いた。これよると、この歌集に収録した「神こそは野をも山をも創りおけ 人の真の道を踏めとて」の歌の通りであれば、天下の人民は自己判断で進んではならず、ひたすら神習いに従うべきである。この書が今後、世に普及して人の心を染めていけば、異国の教えに依らなくても本来の神の道があることが分かるようになり、また、邪道な妖言を借りなくても直く正しくなるのだという[15]

内容の概要

明倫歌集は、上代より近世にわたる多数の歌集の中から、倫理道徳に関する歌を選んで収録した。始めに君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五倫五常に関する分類をおいて、次いで神祇・国体・文・武・拾遺の分類に及ぶ。五倫五常を始めにおいたのは水戸学で儒教を重んじたからであった。これに神祇・国体・文武の歌を加えたのは徳川斉昭の見識であった。従来の勅撰集はいずれも神祇と仏教を並べていたが、明倫歌集では仏教を採ることなく、新たに国体歌を設けているところに、その精神があった。国体巻は巻頭に「わが国は 天照る神の 末なれば 日の本としも いふにぞありける」の歌があり、また「天地の 開けしよりや 千早ぶる 神のみ国と 云ひはじめけむ」の歌のように神国日本の精神をうたったものが見られる[8]

明倫和歌集編纂当時は僧侶などが観念的な道歌を創って庶民教育に用いていたが、明倫歌集はそのような道歌とは違うといわれた。古くは記紀・万葉集から採り、近世に至っては国学者の歌から多く採取している。本居宣長の歌が最も多い。宣長が国体をうたった玉鉾百首から多くを採っている。国学による道の精神はこの歌集によって具体化したといわれる。日本精神の凝集した詩魂をこの歌集によって明白に見ることができるという。その例を武歌の中から一首挙げると、賀茂季鷹の歌「大日本 神代ゆかけて 伝へつる 雄々しき道ぞ たゆみあらすな」がある[8]

歌数は1,200余首[25]、内訳は君臣212首、父子240首、夫婦172首、兄弟76首、朋友161首、神祇77首、国体35首、文72首、武39首、拾遺119首である[26](合計1,203首)。

その後の展開

書誌

脚注

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