明智光忠

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 天文9年(1540年
死没 天正10年6月14日または15日1582年7月3日または4日
改名 光忠、長閒斎[1](号)
 
明智光忠
『義烈百人一首』より
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正10年6月14日または15日1582年7月3日または4日
改名 光忠、長閒斎[1](号)
別名 次右衛門[1][2]→治右衛門[3]、二郎[4][2]、二郎四郎[5]通称
主君 明智光秀
氏族 明智氏
父母 明智光久[6][7][1][8]
明智光秀二女[2][9]
光近[2]、小也[注釈 1]細川忠興側室[12]
テンプレートを表示

明智 光忠(あけち みつただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。丹波国八上城主。剃髪して長閒斎(ちょうけんさい)と号した[1]。通称は次右衛門または二郎、二郎四郎。

光忠は『明智軍記』や系図に登場する名前で、『綿考輯録』や『信長公記』では明智次右衛門とされている。他の史料にはほぼ登場しない人物だが、娘が細川忠興の側室で子をもうけているので、実在する人物のようである。

『明智軍記』や系図では、明智光秀の叔父にあたる明智光久の子[8][1][2]で、光秀の従兄弟[1]とされ、光秀の重臣の1人のようであるが、事績が登場するのはほぼ『明智軍記』のみで、確かな史料は乏しい[5]。父とされる光久は伯父・光安と共に弘治2年(1556年)の明智城陥落時に死亡したとされる[9]

『明智軍記』では、永禄5年(1562年)に光秀は朝倉義景に仕えて、光秀の一族として弥平次光春(秀満)と次右衛門光忠も、加賀一向一揆の討伐で手柄を立てたとあるが[13]、この事績は確認できない。

天正3年(1575年)に丹波過部城(余部城)と同5年(1577年)に篠山城を落とした後、光秀は亀山城に光忠を留守居として入れた[14]。過部城攻略の手柄を織田信長にも称賛され、褒美として次右衛門を「治右衛門」とする旨の感状と、安吉の脇差しを賜った[3]

天正7年(1579年)、兵糧攻めにしていた八上城が落ちると、この城に城代として光忠を入城させた[15][16]

天正10年(1582年)6月1日、光秀は左馬助(秀満)・次右衛門(光忠)・藤田伝五斎藤内蔵助と謀って、光秀の主君の織田信長を襲撃する本能寺の変を起こした[9]。次右衛門光忠は、『 惟任退治記』によれば、本能寺への攻め手の一方を務めた[9]。『野史』によれば、信長の子の信忠らが籠城する二条御新造を攻撃したが、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負う。知恩院で療養していたが、2週間後、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にしたと聞いて、知恩院で自害したとも[3]近江国坂本城に向かって、翌15日に明智光春(秀満)および明智一族と共に自害して果てた[1]ともいう。享年43[1][2]

高山次右衛門について

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI