『新編相模国風土記稿』によれば、明王太郎の家系は奈良時代まで遡る。家祖は名を金丸太郎文観といい美濃国岐阜に住んでいた。文観は十六歳のとき聖武天皇の勅により東大寺造立の棟梁を務め、後に東大寺初代別当良弁僧正に従って相模国に下り、勅願によって開かれた大山寺の造営でも棟梁を務めた。そのとき大山寺本尊 不動明王のお告げがあり、以降は「明王太郎」と称して代々の名跡とし、大山寺・大山阿夫利神社の修造には必ずその子孫が棟梁を務めるようになったとされる[3]。
「明王太郎」の最も古い記録は、平塚市南金目にある光明寺(金目観音)の明応2年(1493年)の墨書である。境内入り口の仁王門に立つ吽形の金剛力士像躰内に仏師「下野法眼弘円」の名とともに「大工明王太郎末孫吉宗[注釈 2]」の銘があり、明王太郎が仁王門造立に携わっていたことが確認される[3][4]。
明王太郎の名が次に現れるのは平塚市岡崎に鎮座する駒形神社の棟札で、天文16年(1547年)のものに「大工秋山郷明王太郎」とある[注釈 3]ほか、永禄11年(1568年)の同神社棟札[注釈 4]にも「大工秋山郷明王太郎」の名がある。また天文20年(1551年)に行われた高部屋神社の社殿再興で大工を務めた記録もあり、少なくとも室町時代までには宮大工として広く活動を行っていた。
近世以降の明王太郎のあゆみは棟札や文書に多く残されている。関係の深い大山寺を中心に相州の寺社造営を広く手がけ、相模国の延喜式内社13社のうち半数の造営に携わるなど、格式ある神社からも信頼を寄せられていた。また相州以外にも活動範囲を広げ、幕府の事業である日光東照宮修復、江戸城西の丸普請、京都御所清涼殿普請、江戸城本丸造営にも参加している。
安永2年(1773年)、工匠明王太郎一門の祖神を意味する「明王工門霊神(みょうおうぐとのれいじん)」の神号を白川伯王家より授かり、以降は祖神として明王太郎文観を祀った[3]。
江戸時代中期以降の明王太郎は神輿の造営も手がけている。相州二宮の梅宮流に対して「大山流」と呼ばれ、相州神輿の双璧を成した。
昭和26年(1951年)に手中明王太郎景堯が亡くなり跡を継ぐ者がいなくなったことで、宮大工棟梁としての明王太郎はその歴史に幕を下ろした。