星野光多
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生い立ち
父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、明治元年(1868年)に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。光多は宗七の次男として万延元年(1860年)に戸鹿野村(現・群馬県沼田市)で生まれた[4]。
明治3年(1870年)に光多は家族とともに横浜に移住した[5][6]。横浜で外国人と商売をするためには英語が必要だと考え、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった[7]。光多は1874年(明治7年)12月、15歳で横浜公会でバラから洗礼を受けて、教会員になった[7][8]。
1877年(明治11年)に中村正直の同人社に入って3年間学び、中村とカナダ・メソジスト教会のG・カクランから薫陶を直接受けた[9][8]。その時、同人社には平岩愃保、岩本善治らがいた[9]。1880年(明治13年)からさらに慶應義塾で3年間学ぶ[10]。自由民権運動にも参加し[11]、上毛交詢社で湯浅治郎とともに活動した[12][8]。
1882年(明治15年)からはM・N・ワイコフが横浜に設立した先志学校の教師兼舎監として勤務した[13][8]。1883年(明治16年)にリバイバルが起こると、先志学校を辞して木村熊二とともに高崎へ伝道に赴く[14]。
1884年(明治17年)に家業の星野屋が傾いたため、星野家は店を閉め一家で沼田に戻っている[15][16][6][17]。この年、母・るいが光多の影響で洗礼を受けキリスト教徒となった[18][17]。
高崎教会時代
星野の伝道活動により、1883年の暮れには信徒の数は約40名に達し、翌1884年(明治17年)に西群馬教会(現・日本基督教団高崎教会)を設立することとなった[19]。1884年5月16日に群馬県内からは安中教会牧師海老名弾正と湯浅治郎が、東京からはG・H・F・フルベッキ、木村熊二、植村正久、小崎弘道、津田仙が出席して、星野が牧師となるための按手礼を執り行った[20]。翌日、17日に高崎市宮元町に新築された教会堂で設立式をおこない、フルベッキ、木村、松山高吉、小崎、海老名、植村の6人の牧師が出席した[21]。
星野は伝道のかたわら青少年に英語を教えることもしており、後に日本銀行総裁となる深井英五も星野による英語教育がきっかけとなりキリスト教に入信した[22]。1885年(明治18年)には故郷である利根郡沼田地域で伝道を行い、父・宗七や兄・銀治にも洗礼を授けた[23]。この伝道の成果として1888年(明治21年)、沼田教会の起こりとなる沼田基督教講義所が銀治らによって開設されることとなった[24]。
1887年(明治20年)には後に牧師として活躍する矢島宇吉に洗礼を授ける。このころ、上州ではハリストス正教と、光多らプロテスタントとが信者の獲得をめぐって激しく競いあった[25]。
1888年(明治21年)から東京・下谷教会(現・豊島岡教会)の牧師として勤めることとなる[26]。
1989年(明治22年)日本基督一致教会本部より、足利教会(現・日本基督教団足利教会)に派遣され、教会の組織化を図り、1890年(明治23年)4月17日に組織化された教会が発足する[27]。
1890年(明治23年)妹の幸(こう)がフェリス女学院を卒業して同校の教師となり、翌1891年(明治24年)から光多も同校教頭として招かれることとなった[28]。幸の学友であった長谷川みねもフェリス女学院に勤務しており、この年光多とみねは結婚式を挙げた[29]。光多は同校で1899年(明治32年)まで奉職し、この年私立学校令が出されたのに伴う手続を終えるとフェリス女学院を退職した[30]。
両国教会時代
フェリス女学院を退職した1899年(明治32年)、前年から日曜日の説教を受け持っていた日本基督教会両国教会の牧師に就任[31]。1900年(明治33年)には日本基督教会第14回大会で伝道局委員や常置委員に選出され、東北地方や北海道などを伝道のため巡回した[32]。
1904年(明治37年)からアメリカに留学しユニオン神学校で学ぶ[33][6]。その途中でパリ・ロンドン・アイルランド・スコットランドも訪れ、1906年(明治39年)1月に日本に帰国した[33]。
外遊中の1905年(明治38年)、日露戦争終結後の暴動(日比谷焼打事件)により、両国教会の会堂が破壊される[34]。
帰国後の光多は、無牧状態であった芝教会の牧師の兼務も依頼され、1908年(明治41年)に就任した[35]。1916年(大正5年)には伝道のため海老名弾正とともに台湾へ、1918年(大正7年)には満洲・奉天へ赴いている[36]。持病の喘息に悩まされることも多くなったため、1920年(大正9年)5月に両国教会の牧師を小林誠に譲り名誉牧師となった[37]。兼務していた芝教会の牧師には富田満を推薦し同年9月に引退した[37]。1922年(大正11年)には両国教会の名誉牧師も辞し完全に引退することとなる[37]。
1932年(昭和7年)7月7日、下落合の自宅で死去[38][39]。葬儀は翌日芝教会で営まれた[38]。墓所は多磨霊園[38]。
