曾禰荒助
日本の武士、政治家、外交官
From Wikipedia, the free encyclopedia
曽禰 荒助(そね あらすけ、旧字体: 曾禰 荒󠄁助、1849年2月20日〈嘉永2年1月28日〉- 1910年〈明治43年〉9月13日[1])は、明治期の日本の官僚、政治家[2]。号は西湖[3]。明治時代の歴代内閣で閣僚職を歴任した。伊藤博文が暗殺される少し前に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた。
曾禰 荒󠄁助 | |
|---|---|
|
| |
| 生年月日 |
1849年2月20日 (嘉永2年1月28日) |
| 出生地 |
|
| 没年月日 | 1910年9月13日(61歳没) |
| 死没地 |
|
| 称号 |
正二位 勲一等旭日桐花大綬章 子爵 |
| 配偶者 | 曾禰テルコ |
| 子女 | 芳川寛治(次男) |
| 在任期間 | 1909年6月14日 - 1910年5月30日 |
| 在任期間 | 1907年9月21日 - 1909年6月14日 |
| 内閣 | 第1次桂内閣 |
| 在任期間 | 1901年6月2日 - 1906年1月7日 |
| 内閣 | 第1次桂内閣 |
| 在任期間 | 1903年7月17日 - 1903年9月22日 |
| 内閣 | 第2次山縣内閣 |
| 在任期間 | 1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
その他の職歴 | |
|
(1898年1月12日 - 1898年6月30日) | |
|
(1900年9月26日 - 1906年5月17日) | |
|
(1892年5月6日 - 1893年12月30日) | |
|
(1906年4月13日 - 1910年9月13日) | |
略歴
長門国(現:山口県)萩藩の家老の宍戸氏の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。通称を寛三郎。曾禰詳蔵高尚の養子となり、曾禰姓を名乗るようになった。
17歳ながら家老格の家柄のおかげで長州藩兵の小隊長として戊辰戦争初期に従軍した。維新後の1868年(明治元年)、明治政府に出仕を命じられ、降兵取締に任じられた。1872年(明治5年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。1879年(明治12年)、陸軍省勤務。翌年から陸軍士官学校勤務を兼ねた。
1881年(明治14年)に太政官書記官に転じ、1886年(明治19年)4月に内閣記録局長、1890年(明治23年)に初代衆議院書記官長に任命された。この任を2期務めた後、第1次松方内閣の解散に伴って衆議院選挙に出て、山口4区から初当選を果たした。会派は品川弥二郎が主宰した国民協会に属したが、1893年(明治26年)に駐フランス全権公使に任じられた。しかし日清戦争の後には駐ドイツ全権公使青木周蔵と共に三国干渉では列強にやり込められている。
1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等を歴任。特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。
1907年(明治40年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、伊藤の退任後に韓国統監となった。曾禰は韓国併合反対論者で、併合論者の桂太郎首相に対して、「桂はよく話して聞かせれば判る」と息巻いていた。しかし結局、山縣・桂に押し切られる形で「適当ノ時機」に韓国併合を断行する閣議決定(1909年7月6日)に同意した[4]。伊藤暗殺事件の直後から韓国併合を進めて、1910年(明治43年)、胃癌[5]により同職を辞したが、併合の完成を病床で聞き薨去。享年62。墓所は青山霊園(1ロ12-28)。
家族
- 実父・宍戸潤平 - 萩藩士
- 養父・曾禰詳蔵
- 妻・てる(1858-1936) - 詳蔵の長女。荒助は多情で知られ、複数の妾があった[6]。夫没後は支援者だった御木本幸吉の送金により生活[7]。
- 長男・曾禰安輔(1880-1928) - 子爵。北海道拓殖銀行員。岳父に菊池常三郎。弟・寛治の起業のため銀行から借金をしたが、寛治が返済しなかったため、4000坪の曾禰邸を売却し[8]、48歳で死去。没後、長男・昌孝が11歳で襲爵するも27歳で没し、二男・寛二郎が襲爵。[9]
- 二男・芳川寛治 - 伯爵芳川顕正の婿養子。妻の鎌子は千葉心中で知られる。
- 三男・曾禰豊三(1883-) - 岳父に群馬の米雑穀商で大間々銀行頭取の中島宇三郎。
- 四男・曾禰又男(1886-1936) - 宮内省技手や兄寛治の会社の事務などに就いたが定職はなく、長兄没後11歳の跡継・昌孝の後見人となる[10]。父が遺した書画骨董の一部を兄寛治が持ち出したとして芳川家の保管庫に侵入し、芳川家伝来の書画まで持ち出し売却したことから1930年に寛治から告訴され、その他の詐欺事件も発覚して逮捕収監される[10]。母てる没後、御木本からの支援が絶えて生活苦となり、妻・仲は40歳で服毒自殺[7]。
- 長女・敏子(1903-1936) - 母てるが没した8か月後の10月に生活苦から33歳で縊死(そののち又男も同月中に死去)[7]
人物
外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、二流政客と称され、長州閥の実力者に肩を並べるには至らなかった。このことから「器用貧乏」ともあだ名された[11]。
フランス公使時代は公使館の一室に籠って、交際も何もせず、朝から晩まで花牌を引いてばかりいたため「花牌公使」とあだ名された[12]。
黒岩涙香によると、1898年(明治31年)時点で十代の愛人を2人抱えていた。一人は17歳の田中いねで小間使い兼妾として雇い、在官中はいねとともに官邸に宿泊し、日曜ごとに赤坂台町の自邸にいねを伴って帰るのが常で、その傍ら、三十軒堀の花三升の花香19歳のもとにも足しげく通っていた[13]。1909年(明治42年)ころ、朝鮮の慶州から石窟庵五重小塔を持ち去った。
江ノ島の碑
年表
- 1889年(明治22年)7月23日 - 兼任 内閣記録局長、叙 奏任官一等[16]
- 1890年(明治23年)- 初代の衆議院書記官長となる。
- 1892年(明治25年)- 第2回衆議院議員総選挙に当選し、同年衆議院副議長をつとめる。
- 1893年(明治26年)- 駐仏公使に転じる。
- 第3次伊藤内閣司法相、第2次山県内閣農商務相、第1次桂内閣蔵相等を歴任。
- 1900年(明治33年)9月26日 - 貴族院勅選議員に勅任[17]。
- 1902年(明治35年)2月27日 - 男爵に叙爵。
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)9月21日 - 子爵に陞爵、副統監となる[20]。
- 1909年(明治42年)6月14日 - 韓国統監に就任する[21]。
- 1910年(明治45年)
- 5月30日 - 韓国統監を辞職。
- 9月13日 - 薨去。
栄典

- 位階
- 1881年(明治14年)
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[22][23]
- 1890年(明治23年)6月11日 - 従四位[22][24]
- 1897年(明治30年)2月15日 - 正四位[22][25]
- 1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[22][26]
- 1904年(明治37年)4月20日 - 従二位[22][27]
- 1910年(明治43年)8月29日 - 正二位[28]
- 爵位
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1889年(明治22年)11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[22][31] | ||
| 1889年(明治22年)12月27日 | 勲六等瑞宝章[22][32] | ||
| 1890年(明治23年)12月26日 | 勲五等瑞宝章[22][33] | ||
| 1891年(明治24年)3月18日 | 勲四等旭日小綬章[22][34] | ||
| 1894年(明治27年)6月19日 | 勲三等瑞宝章[22][35] | ||
| 1898年(明治31年)4月6日 | 勲二等旭日重光章[22][36] | ||
| 1901年(明治34年)10月21日 | 金杯一組[22] | ||
| 1902年(明治35年)12月28日 | 勲一等瑞宝章[22][37] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 旭日大綬章[22][38] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[39] | ||
| 1908年(明治41年)3月4日 | 日本赤十字社有功章[40] | ||
| 1909年(明治42年)4月18日 | 皇太子渡韓記念章[41] | ||
| 1910年(明治43年)8月29日 | 旭日桐花大綬章[28] |
- 外国勲章佩用允許
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1897年(明治30年)5月20日 | レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[22][42] | |||
| 1897年(明治30年)10月6日 | イサベル・ラ・カトリカ第一等勲章[22][43] | |||
| 1898年(明治31年)9月20日 | ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の聖母騎士団勲章グランクルース[22][44] | |||
| 1902年(明治35年)3月12日 | 頭等第三双龍宝星[22][45] | |||
| 1908年(明治41年)3月12日 | 李花大勲章[46] | |||
| 1909年(明治42年)11月15日 | 瑞星大綬章[47] | |||
| 1909年(明治42年)11月15日 | 勲一等瑞鳳章[47] | (妻・曾禰光子受章) | ||
| 1910年(明治43年)4月14日 | 皇帝陛下南西巡幸記念章[48] |