有鹿神社
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北緯35度27分13.00秒 東経139度22分38.30秒 / 北緯35.4536111度 東経139.3773056度座標: 北緯35度27分13.00秒 東経139度22分38.30秒 / 北緯35.4536111度 東経139.3773056度
奥宮:
北緯35度30分29.32秒 東経139度23分15.96秒 / 北緯35.5081444度 東経139.3877667度
中宮:
北緯35度27分15.88秒 東経139度22分52.05秒 / 北緯35.4544111度 東経139.3811250度
有鹿比女命
大日靈貴命
| 有鹿神社 | |
|---|---|
|
中宮 | |
| 所在地 |
本宮: 神奈川県海老名市上郷1-12 |
| 位置 |
本宮: 北緯35度27分13.00秒 東経139度22分38.30秒 / 北緯35.4536111度 東経139.3773056度座標: 北緯35度27分13.00秒 東経139度22分38.30秒 / 北緯35.4536111度 東経139.3773056度 奥宮: 北緯35度30分29.32秒 東経139度23分15.96秒 / 北緯35.5081444度 東経139.3877667度 中宮: 北緯35度27分15.88秒 東経139度22分52.05秒 / 北緯35.4544111度 東経139.3811250度 |
| 主祭神 |
有鹿比古命 有鹿比女命 大日靈貴命 |
| 社格等 |
式内社(小) 旧郷社 |
| 創建 | 不詳 |
| 本殿の様式 | 一間社流造 |
| 別名 | お有鹿様 |
| 例祭 | 7月14日(例大祭) |
| 主な神事 |
水引祭 遷座祭:4月8日 還御祭:6月14日 |
| 地図 | |
有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県海老名市上郷に本宮が鎮座する神社。創建年は不詳だが、貞観11年(869年)11月19日に従五位上への神階上昇が記され[1]、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内、高座郡の小社、有鹿神社(ありかのかみのやしろ)に比定される。江戸時代末には海老名郷五村の総鎮守[2]、近代社格制度では郷社に指定され、現在は神社本庁と被包括関係に属する神道系宗教法人である。
本宮
有鹿神社は相模川中流域の左岸、鳩川の勝坂湧水と海老名耕地に信仰域を持ち、本宮(ほんみや)、奥宮(おくのみや)、中宮(なかのみや)という三社で構成される。
海老名市上郷、相模川を北側に、中津川、小鮎川、鳩川という支流合流点に河成堆積した水はけのよい自然堤防上に鎮座している。境内は南から南東側を八王子道(海老名市道17号)に面して、東側を横須賀水道道が一部境内を分断。ほぼ全域が海老名市自然緑地保全区域に指定され、有鹿の森と呼ばれる鎮守の森[4]はケヤキを中心に、ムクノキ、タブノキ、イチョウ等の樹木が境内の北側に茂る。境内西北側には木造銅板葺の社殿が南向きに建つ。拝殿、幣殿、覆殿が三棟一宇の構造で、本殿を覆殿で覆っている。他に鳥居、狛犬二対、灯籠二対、境内社二社、手水舎、鐘楼、神楽殿兼神輿殿、社務所等が建つ。
奥宮
相模原市南区磯部勝坂の有鹿谷に鎮座している。有鹿谷は国指定の縄文時代遺跡のある勝坂遺跡公園の西側、河成段丘崖下にあり、周辺の照葉樹林は相模原市の天然記念物に指定[5]されている。石造りの鳥居と猪鹿蝶が彫刻された明治19年(1886年)建立の石祠台座、昭和40年(1965年)建立の石祠があり、そこから北へ小川(有鹿の泉)を辿ると段丘崖から湧水が湧き出す場所があり、そこが有鹿窟と呼ばれる。この湧水窟は、かつて内径一尺(30センチメートル)程の穴があり、水引祭で神体を奉安した[6]というが、現在は崩落して埋まっている。
中宮
海老名市上郷、本宮から東北東方約400メートルに鎮座している。境内は一般住宅地に挟まれていて狭い。入口に「有鹿池」石碑、石造りの鳥居、神体である霊石が見つけ出された伝承の残る有鹿池(あるかのいけ)がある。涸れている小さな池には太鼓橋が掛けられ、橋を渡ると平成10年(1998年)建立の石祠が建てられている。この鎮座地は土地の所有者が昭和51年(1976年)11月に有鹿神社へ寄進した[7]。寄進した家には神体である丸石が相模川上流から流れ一度勝坂で祀られていたが衰退したため有鹿池に流れ着いたという伝承が残る[8]。近隣での類似の伝承として、鈴鹿明神社縁起で、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により、有鹿神は上郷に追いやられた伝承がある(詳細は「鈴鹿明神社#有鹿神社との説話縁起」を参照[9])。
祭神・神体
現在の祭神は二柱で合わせて有鹿大明神、お有鹿様(あおるかさま)と呼ぶ[4]。
- 有鹿比古命(あるかひこのみこと)
- 有鹿比女命(あるかひめのみこと)
二柱共に記紀には見えない。有鹿比古命は本宮、中宮で祀る男神で太陽神。有鹿比女命は奥宮、中宮で祀る女神で水神であるとする[4]。
また、神奈川県神社庁HPの有鹿神社ページでは一柱「大日靈貴命」を祭神とする[10]。
- 大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)
天照大御神の別名とされている神で、『新編相模国風土記稿』にも有鹿神社の祭神として大日靈が見え[2]、現在でも本宮に祀られている。
他にも過去の祭神には諸説があり、『日本惣国風土記』『神社覈録』では「太玉命」、『新編相模国風土記稿』では「大日靈」(本地仏を虚空蔵)、『鷹倉社寺考』では「有鹿比古命」(本地仏を大日如来)、『神名帳考証』では「吾田鹿葦津姫」「有鹿葦津女」、『高座郡神社略誌』では「大日孁女貴命」「宇氣母智神」、小島重治前宮司の代に作られた『有鹿神社参拝の栞』では「大日孁貴命」と相殿「有鹿姫」とある。
神体
有鹿神社本宮の神体は高さ五寸(15センチメートル)、周囲九寸(27センチメートル)の淡い黒色をした丸石[2]だとして、本殿内陣に収められている。奥宮の神体は有鹿窟から湧き出す泉であるとする[8]。
歴史・縁起・関連遺跡
草創・古代
有鹿神社の起源は水に纏わる特殊神事「水引祭」にあると言われ[4]、それを表すように信仰地域の奥宮本宮の近隣では水辺祭祀の遺構、遺物が発見されている。
奥宮が鎮座する勝坂遺跡は縄文時代草創期(1万7000年前 - 1万1500年前)まで起源が遡る[11]集落で、奥宮の神体である有鹿窟湧水を含む有鹿谷段丘崖湧水群を中心に発達した[12]。縄文時代後期後葉から晩期(3200年前 - 2400年前)に集落は衰退したと見られるが[13]、数千年という長い年月、集落を潤してきた湧水は信仰対象でもあり、勝坂有鹿谷祭祀遺跡からは古墳時代中期(4世紀末葉)から飛鳥時代(7世紀前葉)まで継続的に水霊祭祀[14]が行われ、使用された小型有文鏡や子持ち勾玉、石製祭具等が発見されている[15]。
本宮の境内西側に隣接する河原口坊中遺跡[16]は弥生時代中期(約2400年前)から近代まで断続的に遺構が続く複合遺跡で、住居域、墓域で小銅鐸、銅鐸形土製品、卜骨などの祭器類、外の地域との交易を思わせる板状鉄斧や多量の土器、石器、保存状態の良い木器等の遺物が出土した。集落の北西位置には弥生時代中期から後期末にかけて徐々に埋まりながら流れていた旧河道があり、河道斜面に沿って木製高坏、完形の壺や甕が多数出土[17]、その周囲からは弥生時代後期から古墳時代初頭の土器と共に石棒が出土していて、川岸での祭祀を行っていたと見られている[18]。
本宮から南東100メートル有鹿小学校敷地内で8世紀~9世紀の遺構が発見され、沼地と想定される窪地状遺構から土師器、須恵器の坏類の出土、その下層から弥生時代から古墳時代の土器片も出土した。土師器坏には「天」の意味を持つ則天文字が墨書されており、水辺の祭祀の可能性を読み取るとしている[19]。
有鹿神社本宮の正確な創建年は不詳であるが、『六国史』に初めて有鹿神の神名が見えるのは『日本三代実録』であり、貞観11年(869年)に寒川神社と共に神階上昇(従五位上)が記されている[20]。延長5年(927年)編纂の『延喜式神名帳』に相模国高座郡六座に「有鹿神社」の記載があり[21]、承平年間(931年 - 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』に「高座郡有鹿郷」[22]が見えることから、平安時代中期には相模国高座郡に鎮座していたと考えられる。
中世
有鹿郷は海老名氏の勢力下に入ると海老名郷と呼ばれるようになる[23]。本宮近隣には海老名氏の館跡[24](小字「御屋敷」[25])や海老名氏の菩提寺とされる寶樹寺(現在は廃寺、跡地に海老名氏霊堂)があり、応永23年(1416年)に寶樹寺の開祖、寶樹沙彌(海老名持季)が梵鐘を有鹿神社へ奉献しており[26][27]、平安時代末~室町時代まで有鹿神社は海老名氏に庇護されていたと考えられている[28]。後に鎌倉公方、足利持氏が永享の乱で海老名道場(寶樹寺とされる)に陣を敷き敗れると、直臣であった海老名氏は最期まで従っていた[29]。さらに長尾景春の乱でも海老名氏は景春方に付き、奥三保で敗れ、有鹿神社への影響は見られなくなる。そして戦国時代には後北条氏の支配域で、山中氏の知行地となる[30]。
有鹿神社の由緒を記した『相模國高座郡有鹿明神縁起』が永和3年(1377年)、『続縁起』が天正13年(1585年)の成立としていて、別当であった総持院に有鹿大明神縁起として巻子1巻が所在している[31]。縁起の内容[32]は永和の物を「古縁起」、天正の物を「続縁起」として略し、以下に表とした。
| 時代 | 内容 |
|---|---|
| 神代 | 天孫降臨が語られ、天皇支配の長久と人々の利益のため八百万の神を国々で祀る。海老名では有鹿神社。 |
| 大日霊の分魂が眷属神を従えて勝境へ降り立つ。 | |
| 古老曰く、海老名郷はかつて大海老の住む入り江で、海水が引いた後は麗しく豊かな田園となったので「海老名」という美しい名とした。 | |
| 鹿や霊鳥の集う麗しい丘に明神が降臨し、その姿を流水に留めた。人々は産土神として祀り有鹿大明神と称した。 | |
| 神亀3年(726年) | 春、行基が有鹿神社に参籠したところ、たちまち天皇は平癒した。 |
| 天平勝宝6年(754年) | 海老名郷司、藤原廣政の夢兆に有鹿明神が「虚空蔵菩薩の化身」として現れ神託を下される。廣政は神祠を再営、境内は美麗な社殿と十二の坊舎が軒を連ね、別当寺の海老山満蔵寺総持院の大伽藍を造営、弘咋大徳を招き開祖とした。 |
| 天平勝宝8年(756年) | 墾田五百町を神供料とした。 |
| 延長年間(923~931年) | 日本国中の大小名神を記録した「延喜式」に載る。 |
| 永承4年(1049年) | 後冷泉院が仏舎利を諸国の社に納めると、有鹿明神は歓喜して影向霊池に現れ、海老名の繁栄を見て舞い踊り、喜びながら社殿に戻った。 |
| 後醍醐天皇の代(1318年~1339年) | 兵火で有鹿神社の社殿、総持院焼失、神領は簒奪される。 |
| 時代 | 内容 |
|---|---|
| 応永23年(1416年) | 寶樹沙彌は社殿の修理を成し遂げる。 |
| 応永24年(1417年) | 寶樹沙彌は梵鐘を奉納。 |
| 天正3年(1575年) | 総持院住職慶雄は長い祭祀の断絶に嘆き悼み、再興を心に誓い祈ったので、有鹿明神は4月7日の夜に夢告で霊石を探し出すように告げる。翌朝、慶雄は影向池に霊石を探し出し、一旦仏前に安置すると、霊鳥の飛行に導かれて行幸し、降りた所に霊洞があったので御神体を納めた。 |
| 6月13日夜、再び夢告により、翌日、本宮へ遷座し、これを毎年恒例の神事とした。この奇瑞に郷の人々は驚き、同年の秋、神社を再び修理した。 |
続縁起の大半は現在まで伝わる特殊神事「水引祭」の伝承であり、総持院の僧が夢兆を見て復興を成し遂げることから、別当寺の宗教的権威を表し、後北条氏から朱印状[33]を受けることで政治的権威を持って、戦国時代末以降には総持院が有鹿神社を擁護するようになっていたと考えられる。ただし、有鹿明神縁起の内容は中世日本紀に見られる「日本書紀を基にした物語」「本地垂迹説」等といった特徴があることから、成立年代は下る、とも見られている[28]。
関連性のある中世期の遺構として、安養院境内にある有鹿丘と呼ばれる塚は川原石に一字一石の文字が墨書してある経石を埋納した経塚であり、海老名耕地における蝗の災害を除け、治水の祈祷のためにこの河畔におこなわれた行事であるとしている[34]。有鹿神社東側では大量の川原石を敷き詰めた上に板碑、五輪塔の混ざる墓域、上郷中世墓群が見つかり、河原口坊中遺跡では鎌倉時代の物とされる密教法具の金剛盤が地鎮具として柱穴に埋められているのが発見されている。
近世
江戸時代の有鹿神社は海老名郷五村の総鎮守として、水引祭を斎行する役割を持って海老名五ヵ村用水、海老名耕地を守護していた。その水田の景色は鉄牛道機が龍峰寺八景詩として詩に賦し[35]、渡辺崋山は『游相日記』で「一望曠然、目中皆稲田。海老名といふ。此田、三千石を収む。[36][37]」と綴っている。参道である明神大縄が矢倉沢往還(青山通り大山道)と交差しており、江戸から大山へ参詣者も多く通り、河原口村で厚木の渡しを利用した。測量のため伊能忠敬測量隊が第9次調査として有鹿神社へ立ち寄っている[38][注 1]。
この時代に記されたとされる有鹿神社の載る資料として、国学者が記した『神名帳考證[39]』『神名帳考証土代[40]』、寒川神社神主が記した『鷹倉社寺考[41]』、偽書ともされる『日本総国風土記[42](写)』、幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』、民選地誌である『相中留恩記略[43]』『座間古説[9]』がある。
奉納物では、亨保元年(1716年)に奉納された手水鉢、元文4年(1739年)に再建修造された本殿[44]、寛保4年(1744年)に奉納された関思恭書の有鹿大明神の神額、延享2年(1745年)に建立された相模国十三社有鹿神社社号碑、万延元年(1860年)に近藤如水によって描かれた天井龍絵図が現存している。
近代
明治維新で神仏分離政策[45]が敷かれ、総持院も有鹿神社の別当寺を解かれることになる。総持院住職であり最後の別当職であった龍海は還俗を命じられていたが僧職に残り、幼年の弟子である隆寛を還俗させて井上主計と改名して神主とすることを届け出る。しかし、以前より祠官であった加藤頼母との間で紛争となり、最終的に両者は退役して頼母の子が井上主計の名で神主を継ぐことになった[46][47]。
明治6年(1873年)有鹿神社は郷社に列し、明治13年(1880年)水引祭の4月8日の遷座式を廃して、例祭を7月14日に変更して行うようになる[27]。明治43年(1910年)神饌幣帛料供進社に指定される[48]。
大正7年(1918年)に横須賀水道の上郷水管橋が竣工、境内を水道道が横切り一部を分断。昭和19年(1944年)、元禄2年(1689年)に再鋳された宮鐘が第二次世界大戦のため金属供出される[49]。
現代
戦後、GHQの「神道指令」に基づき、神社の国家管理が廃止され近代社格制度も廃止。神社本庁が設立され、神社は他の宗教と同じく宗教団体として扱われることとなり、昭和28年(1953年)8月1日に宗教法人「有鹿神社」として登記され[50]、神社本庁と被包括関係となる。
昭和28年(1953年)に神輿師、後藤直光氏により現在も担がれる神輿が制作される。昭和53年(1978年)宮鐘が再鋳、鐘楼も再建される。平成4年(1992年)、本殿および拝殿天井龍の絵図が海老名市重要文化財に指定された[51]。
水引祭
パンダ宮司
| パンダ宮司 Panda Chief Priest | |
|---|---|
| 対象 |
有鹿神社(神奈川県海老名市) |
| 分類 | 神社公式キャラクター |
| モチーフ | パンダ、実在の宮司 |
| デザイン | 小島実和子 |
| 性別 | 不明 |
| 関連グッズ | Tシャツ、クリアファイル、御守、御朱印帳 |
| 公式サイト | https://www.arukajinja.jp/ |
パンダ宮司は有鹿神社の公式オリジナルキャラクター。正確には「パンダ宮司代理」で紙粘土製の張り子パンダヘッドを被り、頭はパンダ、身体は神職、という設定で祭祀舞の奉納をしたり、参拝者との記念撮影に応じたりする。ただし、祭祀祈祷は行わない[54]。
出自は実在の宮司がモデルで、2016年3月頃にはパンダイラストやパンダ(絵文字)宮司の表記がTwitter投稿で見られる。その後パンダパペットを経て、2017年6月にパンダヘッドが完成し、TVKのあっぱれ!KANAGAWA大行進でTV出演をしている[3]。
また、ネギ禰宜、レッサーパンダ宮司や干支モデルの被り物も制作されている。
境内
文化財
社殿覆殿に覆われている有鹿神社本殿は海老名市重要文化財で一間社流造、柿葺の大規模な社殿で18世紀中頃のものとされる。また、拝殿の天井板には江戸時代の絵師、近藤如水による龍絵図が描かれていてこちらも海老名市重要文化財に指定されている[51]。
本宮境内末社
社殿北西側に三社様(さんじゃさま)と呼ばれる三社相殿の社が鎮座していて新編相模国風土記稿に見える諏訪、稲荷、山王合社である。境内の東側には天神を祀る有鹿天神社が鎮座する。天神社は海老名氏館跡東側(河原口字屋島の天神森)から平成3年(1991年)に遷座されたものである[注 2]。
- 三社様と総称される末社の小祠
- 有鹿天神社
境外社
境外には摂社が二社存在する。本宮の南隣に所在する有鹿小学校を挟んで東側(本宮から東方約400メートルの位置)に三王三柱神社(さんのうみはしらじんじゃ)が鎮座しており、同社境内には前述のとおり「有鹿の井戸(化粧井戸)」がある。また、河原口の坊中(本宮から南西方向約500メートルの位置、公園内)には神武社(じんむしゃ)が鎮座する。
- 三王三柱神社
祭事・年中行事
ギャラリー
- 本宮
- 拝殿正面側にある境内入口と鳥居
- 現在の手水舎
- 拝殿とその手前に狛犬
- 境内の様子
- 社殿裏手に安置されているかつての手水舎や石碑など
- 社殿裏手の石碑には「相模国十三座…」とある
- 中宮
- 入口の石碑には「有鹿之池」とある
- 小祠とその手前に池(現在は水が張られていない)
- 有鹿の井戸
- 三王三柱神社境内にある有鹿の井戸
- 別の角度より、隣には道祖神がある
