筑紫工業高では2年秋に南部県大会ベスト4へ進むが石貫宏臣 - 柴原浩のバッテリーを擁する西日本短大付高に敗れる。卒業後、社会人野球の九州三菱自動車に入団。1990年の都市対抗野球に補強選手として出場した[1]。
1991年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから6位指名され入団。
1994年に一軍初登板を含む6試合に登板するが、翌1995年は一軍登板がなくオフに現役を引退した。
その後は、沖データコンピュータ教育学院のコーチ・監督を経て、福岡県糟屋郡の野球塾「PBS野球塾」プロフェッショナルコーチとして指導にあたっている。
2009年1月より自らも服部式野球教室(HMBC)を設立し、北九州市を中心に訪問型指導にて、選手育成をしている。