望月浩
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来歴
高輪学園在学中の1964年1月、「味の素ホイホイ・ミュージック・スクール」(日テレ系)のオーディションに合格し、ナベプロにスカウトされる。同番組に合格した布施明も同時にナベプロにスカウトされたが、布施が歌唱力で評価されたのに対して、望月はアイドル性が評価され、即戦力として東芝音楽工業(現・ユニバーサルミュージックLLC)の草野浩二ディレクターによって望月のデビューが決まる。(なお、東芝の草野に採用を見送られた布施はキングレコードに拾われた)。同年、ナベプロが開設したタレント養成学校である東京音楽学院に入学し、布施明、森進一など同学院の有望な人材によって結成された「スクールメイツ」の一期生に選ばれた。
東京音楽学院で半年のレッスンを経て、1965年2月、『一人ぼっちが好きなんだ』で東芝音楽工業よりデビュー。舞台の「日劇ウエスタンカーニバル」や、テレビの「ザ・ヒットパレード」(CX系)などに出演し、人気となった。同時代の叶修二(グラモフォン)、川路英夫(ビクター)などと共に、レコード会社における1965年度の「ホープ」と位置付けられ、『平凡』や『明星』でも露出は多かった。望月、叶、川路の三人はそのルックスもあって女子中学生に人気が高く、1965年当時の少女向け雑誌『女学生の友』ではこの三人が「ライバル」としてプッシュされていたが、ファンの年齢層が低すぎるため、レコード会社の期待とは裏腹に、レコードのセールスは振るわなかった。
1966年4月公開の大映映画『春一番』にも特別主演し、女子高校生の登場人物が望月が演じる歌手の大ファンという設定がある。『中三時代』(1967年5月号)のアンケートでも、当時の中3女子の間で舟木一夫と山田太郎に次ぐ2番手グループ(ほかは三田明、川口恒)に入る人気を持っていた。
1966年1月にリリースされた『君にしびれて』は、「エレキ演歌No.1」のキャッチコピーで売り出され、発売1か月で10万枚を売るスマッシュヒットとなった。この曲は、歌謡曲にエレキギターを取り入れた「エレキ歌謡」「リズム歌謡」の代表曲として後世に再評価されている。また、当時の児童には、少年雑誌におけるアイドル的な露出に加え、東芝をスポンサーとして1967年に放映された特撮テレビドラマ「光速エスパー」のテーマソング『光速エスパーの歌』でも知られた。
1966年6月のビートルズの来日コンサートでは内田裕也、尾藤イサオ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルー・ジーンズ、ザ・ドリフターズらと共に前座を務め[1]、ブルーコメッツをバックに『君にしびれて』を歌った。ナベプロ/東芝人脈で占められた、ビートルズのコンサートで前座を務めた他のグループが洋楽ロックのカバーを歌ったのに対し、望月は唯一オリジナル曲、それも「歌謡曲」を歌った。しかし、レコード版ではビートルズの『抱きしめたい』(I Want To Hold Your Hand)にそっくりだった『君にしびれて』のイントロは、ブルーコメッツによってアレンジされてしまった。ちなみに、ビートルズの前座を務めた面々は当時の人気歌手であったものの、ビートルズのファン層とは全くかぶっておらず、前座で散々待たされてドリフの出るあたりでは客席から罵声が飛んでくるほどだった。
当時の女のコから大人気の洋楽歌手であるったビートルズと共演した件に関しては、楽屋も別々で、顔もろくに合わせなかったので、「どうってことはないですヨ」[2]とのこと。せっかく共演したので日本製のシャツをプレゼントしようとしたが、マネージャーのエプスタインに断られた。共演を妬んだビートルズファンから毎日のように脅迫文が来たのには困ったらしい。
1966年の「ビートルズ旋風」の後すぐ、「エレキ歌謡」の時代は終わり、日本はグループ・サウンズの時代となる。1967年2月、高校生バンドのザ・サンダーバーズとともに「望月浩とサンダーバーズ」を結成し、『あいつにさよなら』をリリースした。紅一点の16歳エレクトーン奏者の阿部悦子が注目を集めたが(当時としては珍しい、ボーカルではない女性のバンドメンバー)、レコードは売れず、望月は落ち目となった。1967年には露出がほとんどなくなり、引退状態となるが、渡辺プロから月給だけはもらっていたのでつらかったとのこと[3]。この時期、『おもいで』(1966年3月)の50万枚ヒットで一気にスターとなった同期の布施明の引き立て役としての露出も行われた。
望月の引退後、バックバンドをしていたザ・サンダーバーズはムード歌謡に転じ、「ムーディナイツ」として活動を継続した。望月は銀座でスナックを経営したが、経営は良くなく、再び歌手として再起するため、1970年にカンツォーネを勉強するためにイタリアに渡ったりしていた[4]。
福岡に巡業した際に耳にしたザ・チェリー・サウンズ(当時あった博多のジャズ喫茶の専属バンド、東京の歌手が来福した際にバックバンドを務めるなどもしたが、メジャーデビューせずに解散)のアングラ・レコード(現在で言う自主製作盤、インディーズレコード)のカバーと言う形で、1970年に『機嫌を直してもう一度』で再デビューするも、オリコンチャート99位(約0.2万枚)に留まり、人気は得られなかった。ただし、本曲はテレビの露出も行われるなど一定の知名度があり、後年に昭和グルーヴ歌謡の傑作として再評価されており、怪物ランド(テレ朝系「ウソップランド」で1983年に放送)やBe-2(1989年)などがカバーしているほか、グルーヴ歌謡のコンピレーション盤『昭和ダイナグルーヴ Emiミュージック ジャパン編』(2010年)にも収録されている。(なお、本曲はいちおうLES GIRLSが1966年にリリースした『Stop, Look And Listen』のカバーとされているが、1962年に高松秀晴が同名同曲をリリースしているなど、謎が多い)
この時期はナベプロ人脈で、歌謡映画である『喜劇 昨日の敵は今日も敵』(1971年4月)にも出演しているが、一応ポスターに名前が出ているだけの添え物で、メインは堺正章(ザ・スパイダース)や布施明、いかりや長介(ザ・ドリフターズ)であった。
1977年、望月とほぼ同じ境遇の落ちぶれた元スター歌手の叶修二、ダニー石尾と偶然出会って意気投合。「僕たちのように捨てられるスターは金輪際つくりたくない」[5]という強い思いから、音楽プロダクションの「ダイナマイト·ミュージックプロダクション」を結成し、「スーパースター·オーディション大会」を開催した。
1981年3月、ポップデュオ「ZZ」(ズズ)として、「望月裕」(本名。ただし、読みは「ゆたか」)名義で『雨のめぐり逢い』(ビクター)で再デビュー。
その後の経歴は不明だが、youtubeの『君にしびれて』のコメント欄に寄せられた本人のコメントによると、2024年現在、77歳で存命で、若い子に歌を教えているとのこと。
ディスコグラフィー
シングル
- 一人ぼっちが好きなんだ/恋のハンド・ボール(1965年2月)
- 泣かないで/次男坊(1965年5月)
- 太陽だって僕等のものさ/逢いたいさ(1965年7月)
- 野菊は哀し僕の花/二人の涙はひとつ(1965年10月)
- 君にしびれて/あした あさって しあさって(1966年1月)
- あの娘の瞳/涙ビリビリ吹きとばせ(1966年4月)
- 黄色いレモン/あなたのおもかげ(1966年9月5日) - 「黄色いレモン」は筒美京平の作曲家デビュー作
- 星になるまで/涙をふいて(1967年3月)
- あいつにさよなら/星降る浜辺(1967年5月)
- 光速エスパーの歌/幸せのブルースター(1967年8月)
- ひとりぼっちの誕生日/初恋の海(1967年9月)
- ひとりぼっちの世界/こぼれた涙(1968年1月)
- 夜明けの太陽/愛してもなにも(1968年7月)
- 星はなんでも知っている/恋のズッケロ(イタリア語版)(1969年5月) - A面は平尾昌章の、B面はリタ・パヴォーネのカバー
- 機嫌を直してもう一度/青春のすべて(1970年9月)
- 赤い太陽/女の涙は…(1971年5月)
テレビ主題歌
脚注
- ↑ ビートルズ来日公演 今ではあり得ない逸話の数々 NIKKEI STYLE
- ↑ 『明星』1966年9月号
- ↑ 『週刊明星』1970年12月20日号
- ↑ 『週刊平凡』1977年12月1日号
- ↑ 『週刊平凡』1977年12月15日号
| 典拠管理データベース: 芸術家 |
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