朝吹英二
From Wikipedia, the free encyclopedia

朝吹 英二[1](あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日) - 大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。王子製紙取締役会長[2]。幼名は萬吉、鐵之助[3]。族籍は大分県平民[2][4]。短期だが三井財閥のトップである三井合名会社理事長を務めたこともある。
三越社長、帝国生命保険社長を務め、千代田組を創業した朝吹常吉は息子。マリンバ奏者の朝吹英一、フランス文学者の朝吹三吉と翻訳家の朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人の朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる[5]。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である[5]。
豊前国下毛郡宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の庄屋・朝吹泰蔵の次男として生まれた[1][6]。朝吹家は寛永年間に苗字帯刀を許可され[3]、兄・謙三まで15代続く庄屋であった[1]。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の1870年(明治3年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹・澄(スミ)と結婚する。慶應義塾に入学し、1872年、同出版局の創設に際してその主任に就任した[3]。慶應義塾卒業[2][4][7]。
慶應義塾入学後、朝吹は福澤諭吉の自宅に住み込み、玄関番を務めたとされる。玄関番といっても来客の取次ぎにとどまらず、家の掃除や家族の雑用、使い走りなども担い、さらに福澤がアメリカ土産として購入した乳母車に、福澤の娘である里や房を乗せて子守りをすることもあったという。 福澤は後年、「今まで食客を大勢置いたが、たいていは食わせ損で終わったものである。ただ朝吹と牛場卓蔵君だけは、この借金を払った方だ」と語り、その働きぶりを高く評価していたと伝えられている。[8]
1878年(明治11年)、三菱商会に入社。1880年(明治13年)、福澤諭吉、三菱の岩崎弥太郎、大蔵卿の大隈重信の間で、日本人の手による対外貿易を推進する会社の必要性について意見が一致し、横浜に貿易商会が設立された。朝吹は三菱の支配人から転身し貿易商会に入って取締役支配人となり、生糸貿易で、国の権利と独立を守るため外国商人との戦いに挑んだ。その矢先、明治14年の政変で、生みの親の大隈重信が失脚し、政敵の薩長役人に銀行支援を止められた貿易商会は、会社を閉じざるを得なくなった。朝吹は、後に残った約100万(現代の価値で数百億といわれる)を一身で引き受け、借金王の異名を取った。その間、借金取りに囲まれ、五年間、残務整理に追われる立場になるが、死ぬまで誠実にこの負債を返していくことにより、逆に名前を上げて、信頼を勝ち取った。この間、米代にも事欠く苦しい中で、大隈重信が作った立憲改進党の台所を一手に支え政界の裏面で活躍、借金で火の車のなか犬養毅、尾崎行雄らに対しては政拾資金を何とか工面していった。借金の返済と大隈重信への政治資金が重なったが、。義兄・彦次郎の三井財閥に転じて三井呉服店理事となり[6]、1892年(明治25年)に鐘淵紡績専務、1894年(明治27年)に三井工業部専務理事に就任。
中上川彦次郎が三井銀行に入行し、三井の近代化を目的とした改革に着手した際、傘下の鐘淵紡績は業績不振に陥っており、その立て直しを担う人物が求められていた。中上川は周囲の推薦を受けて、朝吹を鐘淵紡績の専務取締役に起用した。この時、朝吹は四十三歳。朝吹は自ら紡績業について学び、人力車から通勤のために最新式の自転車を購入して向島の工場まで通い、毎日三交代制の工員たちを交替時間に激励して作業能率を上げ、工場設備を改善し、鐘紡を大手術、見事に経営を建て直した。また当時業界では従業員の処遇改善に取り組み、同社の経営を軌道に乗せたとされる。[9][10]
その後、抵当流れなどによって三井傘下に入った諸工場を統括するため三井工業部が設立されると、朝吹は専務理事に就任した。当時の三井の最高幹部は、三井銀行の中上川、三井物産の益田孝、鉱山部門の團琢磨、そして工業部の朝吹の4名であった。中上川と益田はともに三井を財閥の中核へと押し上げた実力者であったが、立場の違いから両者の関係が緊張することも少なくなかった。このような状況下で、両者の間に立って調整役を果たし、三井の分裂を防いだ功績について、『中上川彦次郎傳』では「当時中上川・益田両雄の間に在りて、よくその緩衝融和の任に当たり、三井の分解を食い止めた第一の功労者は朝吹英二その人であった」と評している。
1901年(明治34年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも1902年(明治35年)に三井合名専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった[11]。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
福澤諭吉は、何か事が起こると中上川彦次郎に相談を持ちかけることが多かったとされる。中上川は頭脳明晰で即断即決の人物であり、相手が福澤であっても、是々非々で意見を述べる性格であった。一方、朝吹は相手の意向や場の空気を読みつつ、穏やかに話を取りまとめることに長けており、福澤にとっては心置きなく相談できる存在であったとされる。[12]
朝吹の主な活躍の舞台は三井や三菱を中心とする実業界であったが、交詢社の創立や明治会堂の建設など、福澤にとって重要な局面には、常に朝吹の関与があったとされている[13]。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、1907年(明治40年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。なお益田孝(益田鈍翁)とは茶人としての付き合いが深かったようで、詳細は「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」に記載されている。[14]1912年1月、三井家を勇退する[15]。1918年(大正7年)、病のため芝高輪の自宅にて死去[6]。享年70。
人物
日本の実業界に於いて「一種得易からざる老偉人」として知られた[15]。三井家四天王の一人として、中上川彦次郎、益田孝等と併称された[15]。10歳のときの疱瘡が原因で顔にアバタがあり醜男と言われたが、人柄がよかったことから女性にもよくもて艶聞も多かった[16]。また、頭もよく、川田小一郎、大隈綾子らに可愛がられたという[16]。

骨董を愛好する。柴庵(さいあん)と称し、目利きとしても知られた[3]。住所は東京市京橋区木挽町[2][4]。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。
2015年3月12日、耶馬溪町の宮園集落にある朝吹英二翁頌徳碑前で「第3回朝吹英二翁生誕祭」が執り行われた際には、式典の中で地元下郷小学校6年生による「朝吹英二翁への手紙」の朗読が行われた。発表後には、朝吹英二の曾孫の朝吹英和から下郷小学校6年生に自身が英二について書いた本「蝉時雨」が贈られた。[17]
三菱の支配人から転身した後、朝吹は生糸貿易を通じて国の権利と独立を守るため、外国商人との競争に挑んだ。しかし、明治14年の政変によって後ろ盾であった大隈重信が失脚し、銀行からの支援を断たれた貿易商会は解散を余儀なくされた。朝吹は、その際に残された多額の負債を一人で引き受け、数年間にわたる困窮生活を送ったとされる[18]。
この時期、朝吹は「前代未聞の借金王」と呼ばれ、移動の車代にも事欠く状況にありながらも、精力的に活動を続けた。慶應義塾の後輩で、後に「憲政の神様」と称された犬養毅や尾崎行雄が金銭的に困窮していた際にも援助を行ったとされる。犬養が海外視察を希望した際、朝吹は資金を工面したが、保安条例の発布により尾崎が東京退去を命じられたため、この資金は尾崎の渡航費に充てられたという。この結果、犬養は生涯にわたり欧米を訪れる機会を得られなかったと伝えられている。[19]
朝吹の没後、鐘淵紡績社長となった武藤山治は、追懐録の中で朝吹について、「吾々は氏の伝記より幾多の学ぶべきことがあるが、そのうちもっとも学ばねばならぬことは、氏の胸底に強く宿っておった、他人のために労をいとわず、費用を惜しまずして尽くされたその温かい同情心である」と述べ、その人格を高く評価している。[20]
茶人「朝吹柴庵(さいあん・しあん)」としての振る舞い
茶の世界に入る前の朝吹英二は粗忽癖があった。訪問先を間違える、自らの手中にある眼鏡を他人に探させる、他人の帽子や外套を持ち帰る等が常であったとされる。矯正を試みた益田鈍翁が弟の益田非黙へ相談したところ、「柴庵には茶道を習わせるのが良い。そのためには『まず隗より・・・』で、鈍翁が始めよ」との助言を受ける。これに従った鈍翁自身、茶道の道に進み近代を代表する数寄者となり、柴庵もまた鈍翁の最も親しい茶友にして、東都の名物茶人と謳われた。しかし、粗忽癖は必ずしも直らなかった。「窯が掛かった炉を跨いで客座へと進む。」「路地草履を蹲から曲水に流す」など[21]。
茶事を催したのは2回に過ぎず「茶会を開かぬ大茶人」として知られたのは茶道具に対する優れた鑑識眼と名茶客ぶりが理由である。町の道具商が気付かぬ名品を割安で手に入れるのを得意とし、「利休丸壺」(香雪美術館蔵)、「久能寺経」(五島美術館蔵)、「奈良文琳」などが知られているが、なかでも古銅花入銘「青海波(せいがいは)」の掘り出しが有名である。これは徳川家伝来の宝物であり、柴庵が町の書店で二束三文で入手した[21]。
これを聞いた益田鈍翁は、譲渡を懇望。柴庵は明治34年12月31日に以下短歌を添えて譲ったとされる。
逸話
池田成彬の回顧
中上川彦次郎の娘婿で、昭和初期に三井財閥を率いた池田成彬は、朝吹について「人間として付き合って情誼の篤い人でしたね。又非常な苦労人で、我々のようにのっそり育った者じゃない。実に味わいのある人でした」と回顧している(『故人今人[23]』)。
池田は、朝吹の人柄を示す逸話として、ある日、朝吹が眼鏡を失くしたとして秘書を叱責し、秘書が懸命に探した末に戻ると、眼鏡は朝吹自身の手の中にあったという話を紹介している。秘書がそれを指摘すると、朝吹は「なぜ早くそう言わないんだ」と応じたとされ、叱られた側も気に留めず、笑い話として受け止められたという[24]。
また、別の機会には、親しい知人宅を訪ねた際、応接間で待つ間に暑さから裸になっていたところ、見知らぬ人物が応対に現れ、家を間違えたことに気づいて慌てて立ち去ったという逸話も伝えられている。[25]
渋沢栄一の回顧
公益財団法人渋沢栄一記念財団によるデジタル版『渋沢栄一伝記資料』によれば、以下記載があることから、同年代を共に生きた渋沢栄一と朝吹英二に実業家同士の交流があったことが窺える[26]。(以下は渋沢栄一伝記資料からの引用である)
・私が初めて朝吹君を知つたのは多分明治十二三年の頃であつたと思ふ。処は三井物産で、紹介者は益田孝君であつたと記憶する。そして其後米穀取引所に就て或る問題が起つて時々重役連が不評判であつた事がある。其時に自分はドチラかと言へば重役を助ける方の側で、朝吹君は重役に反対の側で三菱の代表者であつた。此時私は朝吹君と会つた処が、反対者と反対者とである、而も喧嘩もせず自分の主張も枉げずに、円満に其の葛藤を解決された事がある。之が私と朝吹君と仕事の上の関係の第一歩であつた[27]。
・それから又明治十四年頃と思ふ。朝吹君が三菱を出て、独立して横浜に貿易商会を起し、大に生糸貿易をやらなくちやいかぬと言つて頻りに働いて居られた。其時に外国商館と横浜の生糸商との間に葛藤が起つた。当時の生糸の売買者は横浜の生糸商故原善三郎君や、故茂木保平君や、それから三井物産の方では馬越恭平君が生糸の事をやつて居られた。それに朝吹君といふやうな訳であつた。然るに或事から遂にそれではと言つて、外国商館の方で生糸商の要求に応ずる事が出来ぬから買はぬと言つた。そこで此方も外国商館に生糸を売らぬといふ事になつた。
・そして三ケ月ばかり其の問題が解けなかつた為に生糸は少からず停滞して来た。そこで金融業者として私外二三の銀行家が大変に心配して四百万円ばかり生糸商に金を融通する事になつた。当時は政府からも、時の大蔵大臣松方さんにも私が相談して、二百万円ばかり融通してやつたと思ふ。
・そこで外国人の方でも亦品物を買ひたくなり、生糸商の方でも亦売らなけりや困るといふ風になつた。それで私と益田孝君、それから朝吹君がその間に立つて仲裁したやうな事もあつた。之が仕事の上に就て朝吹君と懇意になつて第二の事件である。
・第一の事件、第二の事件などによつて朝吹君の人物を見るに、現在は勿論であるが若い時から、事のもつれを解くに持つて来いの人物だと思はれる。朝吹といふ人は極めて捌けたお方である。事業の上ばかりで左様にあるのでなくて、私も明治十四五年頃は随分不身持であつた、殆ど毎日のやうに柳橋に行つて居つた。又朝吹君が私に劣らぬ道楽者であつてよくあすこで落ち合つた。
・なかなかいたづら者で、もとより悪気ではないが、随分私も朝吹からいたづらされた覚えがある。朝吹君に就いては大変面白い話がある。・・・・之は書かれては困りますが、・・・・といふやうな風に、甘いも辛いも塩つぱいもかみ分けた人である。実に巧妙な、融通のきく而も頗る快活な気象で、そして咄嗟の間の才のある人である。結んで解けない、即ち前にお話したやうな葛藤を解くには実に申分のない天品のある方で、誠に圭角のない、打ち分けて話の出来る、言はば人を見て泥棒と思はぬ方の人で、朝吹君にかゝつてはドンナ人でも悪い事はされまいといふやうに思はれる。
・と言つて只お人よし、只大きな人物といふだけでなくて、人に対しても随分激論をされる事もある。然し真に激論であつても朝吹君の言葉はお国言葉丸出しで而も言葉が四角張つて居ない。そして人々の会合の席や議論の場で、所謂睨み合ひの姿になるといふやうな場合には、朝吹君の天品の頓智、そしてその睨み合ひの会合を愉快にするといふ事には申分のない人である。之れ畢竟朝吹といふ人が人間が大きく出来て居て、精神が綺麗であつて、反対者でも賛成者でも、一小区域に局されず、極めて之を公平に見、言はゞ双方に花を持たせ、顔を立てる事が出来るのである。
・然し只朝吹君には一寸軽る過ぎはしないかといふ嫌がないでもない。極めて物事を軽く見て居るやうである。然し之は一人の一長一短で考へて居たばかりでは事は出来ない。そして朝吹君は、考へた事は直ぐやるといふ風である。之も畢竟朝吹君が人のやうに下らぬ事にまでも確執しようとか、自分の非を改めまいといふやうな考へがないから、直ぐ思ふ事もやれ、事に取りかゝれるのだらうと思ふ。つまり人物が大きいと言はなければならぬ。
・それで又朝吹君はさすがに福沢先生のお弟子だけあつて、其身実業界にありながら金の事ばかりにクヨクヨして居られない。極めて多方面の趣味を持つて居られる。殊に歴史などに興味を持つて研究されるなどいふ事は、あまり多くの実業家に見られぬ事である。彼の石田三成に同情し、世人の誤解を解かんために自ら数万の金を投じて自分の論を出版されたのは、よく同君の性格を現はして居ると思ふ。尤も自分は三成に感服はしない方である。
家族・親族
- 朝吹家
大分の朝吹家は、母屋雑座敷合わせて大小29室に及ぶ大邸宅であった[3]。生家跡は、英二の血縁である清島家が運営する保育所になったが、保育園閉園後は宮園集落に寄附され、現在は宮園公園と宮園公民館になっている[3]。
- 父・泰蔵(大分県平民)[4]
- 兄・謙三[3]
- 弟・野依範治 - 曾孫にノーベル賞学者の野依良治がいる。
- 養甥・亀三(1871年 - ?、辛島鶴蔵の弟、兄・謙三の養子)[2][4]
- 長女・フク(1883年 - ?、長野県、名取和作の妻)[2][4]
- 妻・澄(中上川彦次郎の妹)[3]
- 長男・常吉[4](1877年 - 1955年、三越社長)
- 孫・英一(木琴奏者、作曲家)、正二、三吉(フランス文学者)、登水子(小説家、翻訳家)など
- 親戚