木村安兵衛
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きむら やすべえ 木村 安兵衛 | |
|---|---|
| 生誕 |
長岡 安兵衛 文化14年6月20日(1817年8月2日) 常陸国河内郡田宮村 (現:茨城県牛久市田宮町) |
| 死没 |
明治22年(1889年)7月26日(73歳没) 東京府東京市銀座 (現:東京都中央区銀座) |
| 死因 | 胃癌 |
| 墓地 | 東禅寺(台東区東浅草) |
| 肩書き |
木村屋總本店創業者・初代社長 あんパン生みの親 |
| 後任者 | 木村英三郎(次男) |
| 配偶者 | 木村文(ぶん、木村安衛門の長女) |
| 子供 |
次男:木村英三郎(木村屋2代目社長) 三男:木村儀四郎(木村屋3代目社長) |
| 親 |
|
木村 安兵衛(きむら やすべえ、文化14年6月20日(1817年8月2日) - 明治22年(1889年)7月26日)は、日本の実業家。木村屋總本店の創業者。あんパン生みの親として知られる。
文化14年6月20日(1817年8月2日)、常陸国河内郡田宮村(現:茨城県牛久市田宮町)で父・長岡又兵衛の次男として農家の家に生まれた[1]。
天保10年(1839)頃、下総国北相馬郡川原代村(現:茨城県龍ケ崎市川原代町)の木村安兵衛の長女・文(ぶん)の婿養子となり、安兵衛を襲名する。度重なる小貝川の水害の影響で農業に見切りをつけ[2]、江戸へ出て津藩の仕官市内見廻役御蔵番などを務めた。明治になると、東京府で太政官出仕授産所(現在の職業訓練所)の所長だった伯父・木村重義を頼り、そこの事務職となる。授産所では長崎市でオランダ人宅のコックを務めていた梅吉と出会った。
明治2年(1869年)に芝区日陰町(現:港区新橋)にて、木村屋の前身となる「文英堂」を創業した。文英堂の名前の由来は妻の文と次男の英三郎にちなんでいる。資金はそれほど無かったが、妻の蓄えによって開業した。しかし同年の火災で店を焼失したため、翌年に京橋区尾張町(現:中央区銀座)に再び店を開き、この際に屋号を「木村屋」と改めた。焼け残ったのは石釜だけだったが、次男の英三郎や、パン職人の武藤勝蔵の協力によって営業を再開した。
明治5年(1872年)から、木村屋のパンは軍隊食として洋食を取り入れていた芝新銭座(現:浜松町)の攻玉社(海軍兵学校への予備校的存在)の御用達となった。同年9月に新橋と横浜の間に鉄道が開通すると駅構内に売店を出し、また脚気の治療食として効果があるという風聞の助けもあり、商売は繁盛した。しかし明治6年(1873年)2月に再び大火により店を焼失した。
二度目の焼失後、仮店舗での営業期間中に銀座が煉瓦街として再開発されて行く中で、日本でも受け入れられるパンの研究を行い、饅頭に餡が入っていたことからヒントを経て、餡を入れるパンを試作した。この際に、小豆餡をパン生地でくるみ、外は西洋風で中は和風、発酵には酒種酵母を使用した「あんパン(酒種あんぱん)」が発明された。
明治7年(1874年)にあんパンの販売を開始すると更に反響を呼び、翌年には縁のあった旧幕臣で侍従を務めていた山岡鉄舟の仲介で、同年4月4日に隅田川の花見で明治天皇が向島の旧水戸藩下屋敷を訪問した際に、木村屋のあんパンが茶菓子として献上された。このあんパンは中央に桜の花弁の塩漬けをあしらったもので、天皇と皇后、特に昭憲皇太后から気に入られ、宮中御用達となった。あんパンを食べた明治天皇は「ひき続き納めるように」と伝えたという。その他にも山岡鉄舟との縁で、当時静岡市に隠居していた徳川慶喜にもあんパンを献上していた。