木村重太郎
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鶴城中学から熊本工に進む。3年春は選抜に出場し、初戦で永野吉成を救援したが敗れた。夏には選手権大会に出場。1回戦の対横浜商戦では永野の後を受けて登板し、勝利に貢献。2回戦の対広島工戦でも二番手として投げたが、0対1で惜敗。同期に緒方耕一、杉本拓也がいた。
高校3年次に鹿屋体育大学を受験したが不合格だったため、1987年に社会人野球の東芝に入った[1]。チームでの競争は厳しく、優勝した1991年の都市対抗ではベンチ外で同学年の杉山賢人がエースとして活躍している。東芝が出場を逃した1993年の都市対抗では、川尻哲郎とともにいすゞ自動車の補強選手としてベスト4進出に貢献した[2]。
1996年にはアトランタ五輪代表に選ばれ、チーム唯一のサイドスロー投手だったこともあり登板数はチーム最多タイの6試合に登板。予選リーグの対アメリカ戦では1回途中で降板した三澤興一の後を受けるも、トロイ・グロースらに3連続本塁打を浴び、1死も取れずに降板してチームもコールド負けを喫する。続く対ニカラグア戦では二番手として3回1/3を投げ、2失点で勝利投手となりチームの連敗を3で止めた。決勝の対キューバ戦では2回途中から杉浦正則に代わって登板し、ルイス・ウラシアに2ランを浴びながらも3回1/3で7三振を奪い自責点2の内容だった。
現役引退後は東芝で社業を続けつつ、野球教室の講師を務めることもあるという[3]。