垣野多鶴
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長崎県佐世保市出身。長崎県立佐世保工業高等学校では、1968年の2年次に右翼手、一番打者として夏の甲子園県予選決勝に進むが、海星高に敗退。翌1969年夏も県予選準決勝で長崎工に敗れ、甲子園には届かなかった。
1970年に卒業後、東海大学に進学し内野手として活躍。首都大学野球リーグでは、いずれも秋季に4回の優勝を経験。リーグ戦通算82試合出場、297打数95安打、打率.320、12本塁打、52打点。ベストナイン6回(遊撃手1回、二塁手5回)受賞。1973年の4年次に第2回日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。
1974年に三菱自動車川崎に入社。1976年の都市対抗に日本鋼管の補強選手として出場、準々決勝で同点適時打を放つなど活躍し、チームの優勝に貢献。1980年には選手兼任監督としてチームを牽引、8年ぶりの都市対抗出場に導く。現役を引退し監督に専任した1985年には都市対抗でチームをベスト4に押し上げた。
1989年シーズン限りで勇退すると、1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表のコーチを務めた。1999年シーズンオフにチーム事情から再び三菱自動車川崎のユニフォームに袖を通して現場復帰し、いきなり2000年の都市対抗で初優勝を遂げる。
また、2003年、2005年と都市対抗を制し、6年間で3回の都市対抗制覇という偉業を成し遂げ、2005年の大会では小野賞を獲得。また同年の社会人ベストナインでは、過去1人(川島勝司・ヤマハ監督)しかなしえていない3度の都市対抗制覇を称え、特別賞が授与された。
三菱ふそう川崎は2008年シーズンをもって活動休止となり[1]、2009年1月1日付けでNTT東日本の監督に就任した[2]。2013年限りで勇退。