末吉利隆
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1727年(享保12年)、平野郷町を支配する代官であった末吉氏の子として生まれる。後に同族で旗本の末吉元利の養子となる[3][4]。元利が早世したことで、延享元年(1744年)8月3日に祖父嘉于[5]の跡を継ぐ。翌2年(1745年)12月12日、一橋徳川家の近習番になる。その後小姓を経て用人になる[2][3]。
宝暦7年(1757年)12月18日、布衣を許される。番頭の上席兼小姓頭となった後、側用人にのぼる[2][3][4]。
安永6年(1777年)11月28日に徒頭となり、翌7年(1778年)閏7月26日に目付になる[1][2][3][4]。
天明3年(1783年)9月1日、尾張・美濃・伊勢の3国に赴いて川普請の監督をした功を称されて、黄金5枚を賜わる[注釈 1][2][3][4][6]。
天明4年(1784年)4月7日、江戸城内での佐野政言による若年寄田沼意知の刃傷事件の際、速やかに取り鎮めるべきなのに遅滞があったのは落度であるとして、出仕を止められる。翌5月6日に許される[2][3][7]。
天明6年(1786年)4月15日、長崎派遣の命が下される[8]。同年6月16日に長崎着、11月朔日に出立[9]。翌7年(1787年)3月1日、命により長崎に赴いた件で黄金2枚を賜わる。同年3月12日、長崎奉行に就任。家禄100俵を加増される。同月18日、従五位下に叙任され、摂津守を名乗る[1][2][3][4][10]。
長崎に着任した折には、海舶互市新例の趣旨を遵守すること、長崎奉行の先任者に当たる松浦信正と石谷清昌が寛延3年(1750年)と宝暦12年(1762年)にそれぞれ出した取り決めを崩さずに守るという基本方針を示す(『華夷交易明細記』[11])。
天明8年(1788年)7月23日、出仕を止められる(詳細は#閉門の節を参照)。8月23日に許される[1][2][3]。9月11日に同役の奉行・水野忠通が交代のため長崎に到着した後、13日に江戸に帰還[12]。
元方出入御勘定帳
閉門
天明8年当時、長崎奉行だった利隆は、長崎在勤中に閉門となった。その理由について、唐人屋敷を管理した唐人番たちが書き継いだ『唐人番日記』では、
「未拾一番船信牌なし唐船之儀・未九番船折返シ之儀ニ付御差控之由」
と、前年に来航した2隻の唐船(第九番船と第十一番船)の措置について不正をただされたためとある[12]。
このうち第九番船について、『寛政重修諸家譜』では、長崎在留の唐船を帰帆させた後に、折返し再航させたことが、先例こそあるものの一存でこれを許可したのは越権行為だったと書かれている[3]。
『続長崎実録大成』によれば、入港許可証である信牌を持参しなかった第十一番船に対して、利隆は薩摩に流れ着いて貿易ができなくなっていた前年度の六番船の信牌を流用して貿易することを認めたと記されている[注釈 2][12]。当時のオランダ商館長シャッセーの私的日記によれば、通詞から得た情報として、この第十一番船は「ただ一冊の帳面、その中に、会所との間での彼らのもたらした荷物に関するある種の契約素案と注文が書かれていたが、その帳面だけを持って当地に来た」(「オランダ商館長日記」)と書いており、利隆は事前に何らかの約束をしていた第十一番船の商人と長崎会所のために、薩摩に漂流したことになっていた船の名義を転用したことになる[12]。
天明の大飢饉の際、長崎でも打ちこわし(天明の打ちこわし)が発生した直後、利隆は奉行としての都市運営の基本方針を呈しており、そこでは「御国益不失様、并御益筋之儀、程能勘弁有度候事」という文言があった。社会全体の「国益」と、幕府の収益となる「御益」の、両者を程よくバランスを取ろうという考えで、先任奉行の戸田氏孟が厳格な政策を推進した[18]のとは反対に、現地の人たちのさまざまな立場を考慮した方針だった。ここに言う現地の人は、長崎町人だけでなく、唐人やオランダ人、長崎に蔵屋敷を設置していた西国諸藩の武士たちも含まれていた[19]。歴史学者の木村直樹によれば、長崎の都市と幕府の政策とのバランスを考えて、長崎の町によりそった考えをしているうちに、奉行の裁量を超えた判断を下してしまったがゆえの閉門、そして翌年の奉行職更迭であったとしている[12]。
利隆が閉門になり、新奉行の水野忠通が到着するまで全ての業務が滞り、銅搬入が遅延したことに対して、当時のオランダ商館長は抗議した。それに対し水野は、オランダ側の要求に応じて銅を輸出する貿易のあり方そのものへの改革を実施した(水野忠通#長崎の改革参照)[20]。
一橋治済とのつながり
2022年刊の『田沼意次 百年早い開国計画 海外文書から浮上する新事実』(秦新二・竹之下誠一、文藝春秋企画出版部)によると、一橋徳川家の用人を務めていた当時、当主の徳川治済の秘書的なことを利隆はすべて行っていた[21]。
- 宝暦7年(1757年)に「一橋側用人」、同12年(1762年)に側用人筆頭格の「一橋番頭格側用人」となる[注釈 3]。
- 明和元年(1764年)6月22日、島津家の二階堂源左衛門・仁礼仲右衛門を訪れて島津重豪の御機嫌伺いをする[注釈 4]。
- 同年12月22日、徳川宗尹(治済の父)が死去した際、葬儀御用係を務める[注釈 5]。
- 明和3年(1766年)10月3日、治済の供をして芝の島津邸を訪れる。その後、礼のため再度島津家へ赴く[注釈 6]。
- 明和5年(1768年)、同8年、安永2年の『武鑑』では「一橋番頭」と記載される[注釈 7]。
- 安永2年(1773年)11月、治済直系の御用人を務める[注釈 8]。
- 安永3年(1774年)、島津重豪の側室の子で長男の虎寿丸を、正室・保姫の養子にするための手続きをする[注釈 9]。
- 安永4年(1775年)、島津重豪の娘である茂姫と徳川家斉の縁組について、島津家の家老・山岡市正と協議を重ねる[22]。
- 安永5年(1776年)10月3日、一橋家の老女・飯島の態度に立腹した重豪に事情を聞きに行き、同月に島津家に対し一橋家からの謝罪の手紙を書く[注釈 10]。同年12月、虎寿丸の縁組に対して祝儀の品の目録を一橋家からのものとして島津家用人に贈る。
- 安永8年(1779年)に徳川家基が死んだ際、若年寄の米倉昌晴に命じられてその遺品の整理をする[23]。
利隆は、自分の息子と田沼家の小姓番頭をしていた横田準松(のち御側御用取次)の娘を結婚させ、田沼派だった勘定奉行の赤井忠晶の息子に娘を嫁がせるなど、田沼派と結びついていた。同書では、これは利隆利隆が一橋治済のために田沼派とのネットワーク作りをし、そのパイプ役を務めたのであろうとしている[24]。
さらに同書では、田沼意知が暗殺された際に、その場にいた人物の中に利隆の親戚筋の者が多くいた[注釈 11]ことから、一橋治済と事件との関わりを疑っている[25]。