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朱珍

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朱 珍(しゅ ちん、生年不詳 - 889年)は、末の軍人本貫徐州豊県雍鳳里[1][2]

経歴

朱全忠が初めて起兵すると、朱珍は龐師古・許唐・李暉・丁会氏叔琮鄧季筠・王武ら80人あまりとともに中涓として従い、転戦した。朱全忠が汴州に駐屯し、招討使を兼領すると、朱珍は宣武右職に任じられた。軍隊の訓練を簡素にし、綱紀を粛正した[1][2]

黄巣の将の尚譲が騎兵5000人を率いて繁台にやってくると、朱珍は龐師古・斉奉国らとともにこれを撃退した。黄巣が敗れると、朱珍は李克用とともに冤句まで追撃して凱旋した。ほどなく朱全忠に従って汴州・宋州亳州の軍を率いて西華に入り、王夏寨を破り、功により秩を加えられた。光啓元年(885年)、諸軍都指揮使に任じられ、上将となった。軍を焦夷に進め、秦宗権の軍の鉄林3000人を破り、その将を全て捕らえた。西に転進して汝州鄭州にいたり、南は陳州潁州を過ぎ、宋州・亳州・滑州濮州のあいだをめぐって、秦宗権の軍と交戦して、殲滅した敵は数知れなかった。光啓2年(886年)、滑州節度使の安師儒の軍政が治まらなかったため、朱珍は朱全忠の命を受けて李唐賓とともに兵を率いて滑州を討った。大雪に遭いながら、兵士に休息させず、梯子を並べて城壁を乗り越えて、滑州を平定した。光啓3年(887年)、朱珍は朱全忠の命を受けて淄州に募兵に赴き、任県に宿営すると、孫師陂で東面都統の斉克譲の伏兵に遭ったが、朱珍はこれを撃破した。牙山まで進軍すると、都虞候の張仁遇を斬った。兵を乾封に進めると、淄州の軍と白草口で戦って破った。青州の軍2万が金嶺駅に3つの寨を並べると、朱珍は青州軍と戦って、これを連破した。博昌を攻めて、多くの兵を捕らえた。その後、盧瑭・張晊や朱瑄朱瑾の兵を破り、曹州・濮州を平定した[3][4]

梁山の戦いにおいて、朱珍は李唐賓と協力しあわなかった。朱珍は断りなくその妻を軍中に迎えていたので、朱全忠はこれを疑って、ひそかに李唐賓に命じて監察させていた。朱珍と李唐賓はお互いを貶しあって、諍いをおこした。李唐賓は夜に関を斬り破って汴州に帰り朱全忠に訴えた。朱珍もまた軍を棄てて単騎で汴州に帰った。朱全忠は両将を惜しんで、かれらを処罰せず、軍を召還させた。朱珍は軍の先鋒の騎士を率いて陳州と亳州のあいだに入り、秦宗権の軍を迎撃した。南方の斤溝まで進軍して、淮西の石璠の軍2万を破り、石璠を捕らえて献上した。文徳元年(888年)、魏博軍が楽彦禎を捕らえると、朱珍は朱全忠の命を受けてその救援に向かった。亳州の北から静戎に赴き、滑州で黄河を渡り、黎陽臨河・李固の3鎮を破った。内黄に進軍し、聶金や范居実に命じて澶州を攻略させ、臨黄で魏博の豹子軍2000人を殲滅した。再び淮西を攻めて、蔡州にいたり、河を挟んで寨を築き、秦宗権の将の蕭皓の兵を破って、河に追い落として溺死させた。蔡州の西南に陣営を築き、羊馬垣を破ったが、大雨に遭って軍を返した。朱珍は兵を率いて劉瓚を救援し、楚州に赴き、襄山の南にいたったが、徐州の時溥の軍に進軍を妨げられた。朱珍は豊県の攻略を図った。時溥が全軍を率いて豊県の南の呉康里で会戦すると、朱珍は豊県を奪取し、時溥の3万あまりの兵を破った[5][6]

龍紀元年(889年)、朱珍は諸将とともに蕭県に駐屯し、時溥の攻勢を防いだ。朱珍は朱全忠がやってくるのに備えて、諸軍の厩を点検するよう命じた。李唐賓の裨将の厳郊がこれを怠ったので、軍候の范権が朱珍の命を盾に厳郊を譴責した。李唐賓はもともと朱珍と不仲であったことから、このことを訴えた。朱珍は李唐賓が無礼であると怒って、剣を抜いて李唐賓を斬り、騎兵に命じて朱全忠に報告させた。朱全忠は李唐賓の死を聞いて驚いたが、敬翔と謀って、偽って李唐賓の妻子を獄に下し、朱珍を安心させた。朱全忠は蕭県に赴くと、朱珍が迎えに出てきたところを捕らえて、勝手に李唐賓を殺した罪を責め、丁会に命じて殺害させることとした。都将の霍存ら数十人が叩頭して一命を赦すよう求めたが、朱全忠は怒って、折り畳みの椅子を引っくり返して、退けた[7][8]

脚注

伝記資料

参考文献

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