杉田盛

From Wikipedia, the free encyclopedia

杉田 盛
生誕 杉田鶴五郎
元治元年5月27日1864年6月30日
武蔵国江戸浜町山伏井戸(東京都中央区
死没 1934年昭和9年)3月6日
東京府東京市大森区新井宿(東京都大田区
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
教育 帝国大学医科大学
職業 開業医
活動期間 1893年(明治26年) - 1934年(昭和9年)
親戚 杉田玄端(父)、杉田武杉田雄(兄)、杉田六蔵(弟)、杉田廉卿(養父)
医学関連経歴
所属 杉田病院、明治生命保険、丹州病院、三好病院、盛岡病院、東北病院、杉田医院、横浜生命保険
著作 『通俗海水浴論』

杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日1864年6月30日) - 1934年昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸丹後隠岐島盛岡で病院院長を歴任し、横浜大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生[1]・梅所[2]・槑翁[3]杉田玄白4世孫。

生い立ち

元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた[3]。幼名は鶴五郎[4]明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った[5]。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ[6]

父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェルロシア語版地理書』で英学、母に習字を学んだ[6]。明治4年(1871年)沼津兵学校附属小学校に入学し、グッドマンに『ウェブスター・スペリング』で英語を学んだ[6]

上京

1873年(明治6年)末両親・弟杉田六蔵と上京して三田二丁目の兄武宅に住み、1874年(明治7年)春麻布永坂町2番地に移った[7]。海軍御雇教師フェントン夫人に英語を学んだ後、商法講習所ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー宅に住み込み、夫人に英語を学び[8]、娘クララ・ホイットニーと親しくした[9]

1878年(明治11年)医学を修めるため独逸語学校に入学し、東京外国語学校に転じ、1885年(明治18年)廃校により大学予備門に編入した[8]。1888年(明治21年)第一高等中学校を卒業して帝国大学医科大学に進み[1]、1891年(明治24年)佐藤三吉ユリウス・スクリバの引率で濃尾地震被災者を救護した[8]。1892年(明治25年)11月卒業し、医学士となった[1]

開業

杉田盛
杉田盛

1893年(明治26年)2月神戸市に移り、病気の兄杉田雄に代わり坂本村杉田病院院主となった[1]。1894年(明治27年)明治生命保険診査医[8]

1896年(明治29年)京都府峰山町に開設された丹州病院に院長として招かれ[1]隠岐島西郷三好病院長、岩手県盛岡病院長を歴任し、1902年(明治35年)同地に東北病院を設立した[8]

1904年(明治37年)8月子供の教育のため盛岡を離れ、8月[10]横浜市真砂町二丁目16番地に開業し[2]、1906年(明治39年)設立された横浜生命保険の医長となった[10]。1920年(大正9年)3月から1921年(大正10年)12月まで横浜市医師会長を務めたほか[11]日本赤十字社看護婦養成委員長、師範学校校医も務めた[12]

1923年(大正12年)関東大震災で横浜の自宅兼病院が全壊し[13]東京府入新井町新井宿1150番地で杉田医院を再開した[12]。1934年(昭和9年)3月6日[14]自宅で死去した。墓所は芝区栄閑院(猿寺)[13]

著書

  • 通俗海水浴論』 - 1894年(明治27年)刊行。ドイツ人フロンム原著。
  • 「六十年回想記」 - 1928年(昭和3年)9月起筆、1930年(昭和5年)6月擱筆[3]。前半部の写本が沼津市明治史料館所蔵[15]

趣味

日下部鳴鶴に書道[1]棚橋絢子に和歌を学び、絵画、浄曲もよくした[2]

家族

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI