李固言

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李 固言(り こげん、783年 - 860年)は、唐代官僚政治家は仲枢[1]本貫趙州高邑県

李現の子として生まれた。李并の孫にあたる。元和7年(812年)、進士第一等(状元)に及第した。江南西道観察使の裴堪や剣南西川節度使の王播の幕府に仕えた。大和元年(827年)、戸部郎中・知御史台雑事に累進した。大和4年(830年)、李宗閔が宰相となると、固言は給事中に任用された。大和5年(831年)、宋申錫王守澄に誣告されると、固言は同僚たちとともにこれを非難した。また将作監大匠の王堪が太廟を修繕供奉するのに怠慢があったため、減給されたうえ、太子賓客に転じた。固言が怠慢の罰として東宮の官に処遇してはいけないと反対したため、王堪は均王傅とされた。大和6年(832年)、固言は工部侍郎に転じた。大和7年(833年)4月、尚書右丞となった。大和8年(834年)、李徳裕が宰相となると、固言は華州刺史として出向した[2][1]

10月、李宗閔が宰相となると、固言は長安に召還されて吏部侍郎に任じられた。大和9年(835年)5月、御史大夫に転じた。6月、李宗閔が罪を得ると、固言は門下侍郎同中書門下平章事(宰相)となり、ほどなく崇文館大学士を加えられた。ときに李訓鄭注は宰相の座をうかがい、表面では固言を立てながら、実際には李宗閔の党与として固言を憎んでいた。9月、固言は宰相を退任し、兵部尚書興元尹・山南西道節度使として出された。ほどなく李訓と鄭注は甘露の変で殺害された。開成元年(836年)4月、固言は再び同平章事(宰相)となり、判戸部事をつとめた[2][3]

開成2年(837年)10月、固言は成都尹・剣南西川節度使として出向した。検校尚書右僕射を加えられた。開成5年(840年)、武宗が即位すると、固言は長安に召還されて尚書右僕射に任じられた。崔珙陳夷行が宰相となると、固言は検校司空・河中節度使となり、太子少師を兼ねた。会昌元年(841年)、入朝して兵部尚書・戸部尚書を歴任した。会昌6年(846年)、宣宗が即位すると、固言は検校司徒・東都留守・東都畿汝州都防禦使となった。大中13年(859年)、太子太傅に任じられ、分司東都をつとめた。大中14年(860年)、死去した。享年は78。太尉の位を追贈された[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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