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李容洙

朝鮮の社会運動家 (1928-) From Wikipedia, the free encyclopedia

李 容洙(イ・ヨンス、이용수, 英: Lee Yong Soo, 1928年12月13日[1][2] - )は、大韓民国の人権運動家である。

概要 イ・ヨンス 李 容洙이 용수, 生誕 ...
イ・ヨンス
李 容洙[1]
이 용수
李容洙(2018年8月)
生誕 (1928-12-13) 1928年12月13日(97歳)[1]
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 慶尚北道大邱府[1]
国籍 大韓民国の旗 韓国
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2018年の李在明と李容洙

彼女は現在も生存している慰安婦の中で最も若い人物である[3][4]。

生涯

1928年、日本統治時代の朝鮮慶尚北道星州で出生し、かつて一時慶尚北道大邱で幼少期を過ごしたことがある李容洙は、乳母として働く母親に代わって弟の世話をしながら紡績工場に通っていたが、16歳であった1944年に軍慰安婦として台湾に連行された[5]、1946年に故郷へ戻った[6]。

1994年には日本を訪問したことを契機に、その後100回以上の証言集会に参加した。

2000年には東京で開催された女性国際戦犯法廷およびアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館で証言を行った[7]。

2007年にはアメリカ合衆国議会で証言を行い、日本政府に公式謝罪を求める決議の採択に影響を与えたとされる[8]。 その後も国際連合本部や各国議会で証言活動を続けた[9]。 2015年にはサンフランシスコの慰安婦記念碑設置に関連する公聴会に出席し、同年の慰安婦問題日韓合意には反対の立場を示した[10]。

2018年にはフランス議会で証言を行い、2019年には三・一節100周年記念式典で独立宣言書を朗読した[11]。

2020年には記者会見において日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯の会計疑惑について言及し、その後一部関係者から批判を受けた[12]。

慰安婦水曜集会の廃止要求および尹美香批判
李容洙は2020年5月7日、大邱南区の喫茶店で記者会見を開き、「水曜集会をなくすべきだ。何の役にも立たない。参加した学生たちの募金がどこに使われているのかも分からない。来週から水曜集会には参加しない」と述べ、「集会は学生たちに苦労をさせ、わずかな金銭だけを消費し、教育もきちんと行われていない」と発言した。また、挺対協の寄付金に関連して「現金が入ってくること自体は分からないが、募金や基金などが集まれば被害者に使うべきであるにもかかわらず、被害者に使われたことがない」と主張した。さらに関連団体が出版した慰安婦被害者の事例をまとめた書籍について「内容検証が十分に行われないまま出版・販売されている」と述べた[13]。
第21代総選挙で共に市民党から比例代表として当選した尹美香元日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯理事長についても批判し、「慰安婦問題は挺対協代表であった尹美香氏が来て解決すべきであり、国会議員になってはならない。この問題を解決すべきだ」と主張した。また、尹美香がメディアインタビューで述べた「支援の言葉を交わした」という趣旨の発言について「すべて作り話だ」と述べた。今後の計画として「一人でも慰安婦歴史館を設立し、教師のボランティアなどを通じて韓国の学生と日本の若者に正しい歴史を教えることに専念する」とし、「正しい歴史を教えることが慰安婦問題の解決につながる」と述べた[13][14]。
2024年、大韓民国大法院は、日本軍「慰安婦」問題解決のための市民団体である韓国挺身隊問題対策協議会(現・正義記憶連帯)の後援金を私的に流用したとして起訴された尹美香元議員に対し、懲役1年6か月・執行猶予3年とした二審判決を確定した。尹元議員は、2011年から2020年にかけて慰安婦被害者支援名目で集められた資金を私的用途に使用したほか、補助金の不正受給や、所管官庁への登録なしに団体・個人名義の口座で寄付金を集めたなどの罪に問われていた[15]。

2021年3月3日、李容洙は、当時の韓国外交部長官であった鄭義溶と面会し、日本軍慰安婦問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴するよう韓国政府に求めた。また、朝鮮人女性が自発的に慰安婦になったと主張したJ・マーク・ラムザイヤーについて、「その教授もICJに連れて行くべきだ」と述べた[16][17]。

主張

「日本国の総理が私の前にひざまずいて公式謝罪し、賠償しなければならないし、そうすることが日本の子孫たちが平和に住めるようになる道だ」と主張し[18]、慰安婦の強制動員を否定する日本側に対しては「犬同然なやつらよ、私は朝鮮の娘だ。お前らが踏み付けてからもお詫びしない理由は何か」「慰安婦を名乗る女性が死ぬことだけを待つ汚い人間たちの前で、私は絶対死なないでしょう。200年生きて、彼らの末路を私が見るつもりです」と非難している[19]。慰安婦問題日韓合意の成立後も日本に対する謝罪と賠償を求めており、「慰安婦像を東京のど真ん中にも建て、その前を行き交う日本人が申し訳なかったと頭を下げるようにする」と日本で開催された講演会で訴えた。[20]

「慰安婦」という呼称について

李容洙は、「慰安婦」という言葉について強い拒否感を示している。李容洙は、自身を「慰安婦」と呼ぶ人々に対し、「私がなぜ慰安婦なんですか? 説明してみろ、お前たち! 私がなぜ日本軍について回り、日本軍を楽しませ、セックスまでしてやったというんですか」と抗議したことがある。また、「従軍慰安婦ではなく、日本軍強制慰安婦被害者と呼ぶべきだ」と主張し、「強要に逆らえず、『1日に少なくとも20人、多い時には70人の日本兵』から性的暴行を受け、『生理中にも日本兵を受け入れなければならず』、拒否すれば『刃物でずたずたに切り裂かれる』ような暴力に晒された被害者に対し、自ら身体を売ったかのような意味を持つ『慰安婦』という呼称は受け入れられない」と述べている[19]。

アメリカ合衆国下院121号決議

アメリカ合衆国下院121号決議に関する審議では、「日本は1994年以後、何回も総理発言を通じて慰安婦問題を謝罪しているが、これをどの程度繰り返すべきか」といった発言や、「現在の日本が前世代の過ちによって処罰されるべきではない」とする意見が示された(ダナ・ローラバッカー議員)。また、「慰安婦の中で、283人がアジア女性基金から金銭を受け取っている」とする指摘も行われた(スティーブ・シャボット議員)[21]。

これに対し、イ・ヨンスは米国議会で証言を行い、発言時間の制限を超えて自身の経験について説明を行ったとされる[21]。この証言は法案審議の過程における一要素として扱われ、決議採択の過程に影響を与えたとされる[22][23]。

また、この証言を題材とした映画が韓国で制作されている[24]。

韓国挺身隊問題対策協議会批判

李容洙は、2015年に週刊誌「未来韓国」のインタビューで、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」[25]「日本が話し合おうといっているのに。会わずに問題が解決できようか」[25]「なぜ自分たちの思うままにやるのか分からない」[25]と批判した。挺対協が在韓日本大使館前で毎週行っている水曜デモについても「何のためにしているのか分からない。ただ、『謝罪しろ』『賠償しろ』と叫んで集会の回数をこなせばいいというものではない」[25]「抗議を毎週やれば性格も態度も悪くなり、健康にもよくない。挺対協の人たちは闘争家の側にいるようだ」[25]と批判した。自らの証言についても「証言は私の命同然なのに、挺対協は本人に確認もせず、事実とは異なる証言集を出した」[25]「静かな場所で証言を聞かねばならないのに、食事をしながら問答したのが大部分。そのために、証言にはめちゃくちゃになったものが多い」[25]と批判した。さらに韓国政府に対しては「日本から援助を受け浦項製鉄を作り、京釜高速道路を建設したのはいいことだ。あの時の金で(韓国が)経済発展をしたのなら、今度は韓国政府が慰安婦問題の解決に積極的になり、日本に先立ち私たちに賠償してほしい」[25]「問題を解決するなら、韓国政府が慰安婦団体と被害者らを一つの場に集めて議論し、意見を聞かなければならない。そうすれば、被害者らが何を望んでいるかが分かり、解決策が出てくる」[25]と述べている。

活動履歴

  • 2000年、女性国際戦犯法廷にて慰安婦として金君子らと共に証言。
  • 2004年12月3日、岡崎トミ子衆議院議員や神本美恵子参議院議員の紹介で角田義一参議院副議長や細田博之官房長官と面談。「私の青春を奪った日本軍、日本政府を許すことはできない。」など激しく糾弾を行った[26]。
  • 2006年10月3日、「古今東西、慰安婦はいても、従軍慰安婦はいない」と発言した上田清司埼玉県知事に抗議するため、支援者たちと埼玉県庁に訪問。知事と面会の約束は取っていなかったため、県議会議事堂に移動中の知事を取り囲んで抗議を行なった。この後、記者会見を開いたイは「私は当事者。知事の目の前ではっきりと証言したかった」と述べた[27][28]。
  • 2007年11月17日、吉見義明らが立ち上げた連帯ネットワーク慰安婦問題解決オール連帯ネットワークの旗揚げ集会で講演を行う。
  • 2007年2月23日、日朝協会主催の「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」のため来日。この集会は、女性国際戦犯法廷で『慰安所は有料だが、強姦なら無料』という理由で中国人女性を強姦したことを証言した中国帰還者連絡会の金子安次も参加し、イの発言を支持した。(集会後、イは金子と握手し、仲良く記念撮影をしている。)[29]。
  • 2007年3月1日、上田清司埼玉県知事と面談し、「私は確実な被害者です。16歳(数え年)で台湾の特高隊員に連れ去られた。1946年に帰国したがその時は両親が亡くなっていた。知事は両親も殺したのですよ。」と謝罪を求めた。(知事は、「従軍はあったが(従軍)慰安婦はなかった。戦争の時は常に起こりうることだ。これからは平和のために頑張りたい。隣の国だし友好関係になれるように努力する。」と述べるに留まった。)[30]。
  • 2007年3月2日、日本外国特派員協会で記者会見し、「強制はなかったとか慰安婦はいなかったとか日本は言っているが、私が慰安婦として強制連行された当事者であり、証人だ」と批判した。
  • 2007年4月27日、安倍晋三総理大臣がワシントン市にある日系アメリカ人の戦没者記念碑に献花をするために訪問すると、それに合わせてワシントン市内で、韓国系市民団体と一緒に抗議デモを行った[31]。
  • 2007年4月28日、アメリカ合衆国のハーバード大学ケネディー・スクールで、「1944年に強制連行された後、繰り返された無差別な暴行・強姦・拷問を受けた」と証言し、アメリカ合衆国下院121号決議への支持を訴えた[32]。
  • 2007年4月29日、ボストン都心観光名所であるクィンシー・マーケット近隣で市民たちを相手に、日本の蛮行を喧伝し、米下院軍隊慰安婦決議案採択を促す署名運動を行った[33]。
  • 2007年6月14日、参議院会館前で行われた『旧日本軍の性暴力被害者に謝罪と賠償を求める国会前スタンディング』に参加するために来日[34]。
  • 2007年7月30日、アメリカ合衆国下院121号決議が成立すると、記者会見で「決議案は真実と正義が勝つということを立証してくれた。米国と国際社会の良心の勝利だった」「米国議会が私の恨みを晴らしてくれた。日本は私の前で謝罪し、賠償すべきだ」と絶叫した[35]。
  • 2007年11月1日、埼玉県平和資料館が、常設展示の年表中にある「従軍慰安婦」の表記を「慰安婦」に変更したことを巡り、元に戻すよう求める市民団体に招聘され「『従軍』なしでは強制された事実が伝わらない」と宍戸信敏館長らと訴えたが、宍戸館長は「検討した結果。変えるつもりはない」と退けた[36]。
  • 2009年3月4日、従軍慰安婦問題について日本政府が「日韓条約で解決済み」と主張しているため、日本政府に「日韓会談文書」を全面情報公開するよう求めている裁判に参加し、東京地方裁判所で証言を行う。その後の記者会見で「なぜ被害者の私が日本に来て法廷で訴えなくてはならないのか?と思うと涙が出てきた。」と話した[37]。
  • 2009年10月28日、衆議院第二議員会館で開催された戦時性暴力問題連絡協議会の主催による院内集会に参加するため、尹美香挺対協共同代表と一緒に来日[38]。
  • 2011年07月18日、日本軍『慰安婦』問題の早期解決をめざす宮城の会(一戸葉子事務局長、仙台市青葉区)が主催する集会に参加するため来日。[39][40]。
  • 2011年8月31日、韓国の金星煥外交通商部長官に対して、日本軍「慰安婦」問題解決および法的責任を追及する外交政策を即時に履行するように公式書簡を送った[41]。
  • 2011年12月11日、ニューヨークの国連駐在日本代表部に韓国人の支援団体などを引き連れて訪問。対応した木村公使に「日本は一日でもはやく謝罪し賠償しなければならない」「日王(天皇のこと)が私の前にきてひざまずいて謝罪しなければならない」などと求めたが、木村公使は日本政府の公式見解を繰り返した[42]。
  • 2011年12月15日、アメリカ合衆国ニュージャージー州パリセイズ・パークの韓国人有権者センターが同市の市立図書館に建立した「日本人が20万人の女性を拉致した」と記されている慰安婦の碑を李玉善と一緒に訪問し、記者たちの見ている前で号泣した[43]。
  • 2015年4月、日本の安倍首相の訪米が訪米し、上下両院合同会議で演説が決定すると、従軍慰安婦への謝罪を演説に入れるように要請。合わせて、議会前で抗議活動を行った[44][45]。
  • 2015年5月、植村隆とロサンゼルスで合同講演を行い、植村と李は日本の歴史修正主義者と戦うことを宣言した[46]。
  • 2016年3月、慰安婦問題日韓合意を無効化するため、米国ワシントンで開かれる核安全保障サミットに合わせて訪米し、キャンペーン運動を行うことを表明した[47]。
  • 2016年7月1日に北朝鮮の新たな核実験成功という脅威に弾道弾迎撃ミサイルTHAADの韓国への配備計画を決めた朴槿恵政権の決定に対して、韓国政府に慰安婦認定された高齢者二人を加えた6人で韓国国際協議会(International assembly of Republic of Korea)にて反対表明をして、「サードを青瓦台(韓国大統領府)に配備して朴槿恵大統領が安全性を証明せよ」と公式記者会見を開いて政権糾弾を行った[48]。
  • 2019年2月1日の金福童の路祭(路上で行われる葬儀)にて、ソウル広場からソウル鍾路区(チョンノグ)の旧駐韓日本大使館に向けて運柩を行ったあと到着した少女像の前にて次の発言を行った。「私たちには何の罪もありません。15、16歳の幼い頃、爆弾が降り注ぐところで生き延びました。そのときは朝鮮でした。今は大韓民国です。それなのに未だに罪もない私たちに妄言ばかり発している大韓民国…とても悲しくて残念です」[49]。
  • 2022年8月4日、ナンシー・ペロシ米下院議長がアジア歴訪の一環で韓国を訪れた際、面会を試みて支援団体とともに国会を訪れ国会警護員の指示に従いペロシが通りかかるのを待っていたが、警護員がペロシの導線から李の乗る車椅子を移動させようと試み、李がこれに抵抗したため警備員が無理に移動させようとし、その際に李は椅子から落ち手を負傷した[50]。

主張への指摘

  • 秦郁彦は雑誌記事[51]で李容洙の1992年挺身隊対策協議会への証言および2007年アメリカ下院公聴会での証言から、慰安婦になった経緯は民間業者の甘言、朝鮮人による騙しによるものであり官憲による強制連行ではないとし、家出が正しいとしている。また、週刊新潮の取材に対して、「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た”と語り、米国の公聴会でも同じことを喋っているのですが、これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです」「連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間(1944年-1947年)も強いられた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。」と、その証言に疑問を示している[52]。
  • 慰安婦についての研究で一橋大学大学院社会学研究科から博士号を得ている尹明淑は、元朝鮮人慰安婦43人分の証言を調査している[53]。この研究では、このケースは「詐欺誘因」となっており、自分の意志に反した誘拐になっている。
  • 2004年の証言では「1944年、16歳の時に連行され、3年間強制された(日本の敗戦後まで)」だった[54]が、2007年の証言では「1944年15歳の時に連行され1945年に解放とされた」と修正申告。2004年の証言と2007年の証言が違うのではという指摘に、李自身は「私はどちらもそういう風に喋っていない、私が喋ったことが毎回違うと言う人がいるそうだが、集会で話すための持ち時間も違うし、なんにせよ私の体験全部は話せない。その時の選択で喋り方が変わった事をどうして嘘をついたというのか?」と主張した[55]。
  • 2015年、米国での講演では「満16歳の時に理由も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた。」と証言した。[44]
  • 2020年、水曜集会を批判した李容洙に対し、集会を主導してきた尹美香は反論の中で「(30年前の最初の会話では)私ではなく私の友人が…」という話だったという点に触れ、李が元慰安婦ではなかったことを示唆した。さらに「(李の)記憶はわい曲されている」「心身が衰弱した状態」と主張した[56]。

『証言』の変遷

李の証言については「国民服を来た日本人の男から、ワンピースと革靴をもらってうれしくてついて行った」と話していた内容が「日本の軍服を着た男らが家にやってきて、男から何かとがったものを背中に突きつけられ船に乗せられて行った」と“軍による強制連行”を主張する内容に変更していることから信憑性がないと産経新聞により指摘されている[57]。

  • 1993年当時のイ・ヨンスの証言 1993.7「写真記録 やぶられた沈黙」1993.10「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より抜粋
「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達(キムプンスン)のお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。
それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」

『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993)での本人の証言をもとに列記する。

  • 1944年秋(満16歳)貧乏な様子におばさんから働けと勧められ、「軍服みたいな服を着た男」(国民服に戦闘帽の男の日本人)に服と靴で釣られて働けるものとついて行った。大連から船に乗った。
  • 1945年(17歳)新暦の正月、爆撃下の船上で強姦される。台湾の新竹に到着したが股に腫れ物ができて血がべったりついていて歩けない。嫌だと言うと慰安所の経営者に電話線のコード巻き付けられ拷問された。トシコという名で主に特攻隊の相手をした、その際に性病を移された。
  • 1945年8月(17歳)朝鮮人の人が終戦だと教えてくれた、経営者はもう逃げていなかった。埠頭にある収容所に行った。麦が青い芽を出す頃(11月頃)家に帰った。
  • 2002年6月26日の「しんぶん赤旗」[58]では「14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた」「拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた」と証言している。
  • 2004年12月4日に開催された『12・4全国同開催「消せない記憶」』では「1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強姦される。台湾では、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた」と紹介されている[59]。
  • 2006年10月13日、『上田知事の「従軍慰安婦」否定発言を問う県民連絡会』の集会後の記者会見では、「15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間も慰安婦をさせられた」と述べた[60]。
  • 2007年2月23日、日朝協会主催の「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」で「15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた」と証言している[61]。
  • 2007年3月1日、上田清司埼玉県知事と面談後の記者会見では「16歳のとき、台湾で特高隊員に口を塞がれて連れて行かれた」と述べている[62]。
  • 2007年4月27日の「asahi.com」の記事[63]では「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」と証言している。
  • 2007年4月28日にハーバード大学で行った講演では「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」[64]と証言している。
  • 2007年6月14日に開催された『旧日本軍の性暴力被害者に謝罪と賠償を求める国会前スタンディング』で「15歳の時、両親のもとから連れ去られ、台湾の特攻隊の慰安所に送られた」「台湾の慰安所で、私は殴られたり、蹴られたりしました。『言うことを聞いたら、お父さんお母さんにまた会わせてやる』と言われ、されるがままになりました。ひどいことをされ、腹膜炎になりました。」と証言した[65]。
  • 2007年に放送された韓国ESBテレビ「時代の肖像」で「1944年10月、夕方に家の外に出てからわけも分からないまま台湾にある日本軍慰安所までつれて行かれた」「台湾につれて行かれる船に日本海軍300人と朝鮮娘5人が乗っており、船の上でもう純潔を失って悽惨に身を踏み躙られた。」「強要に負けて‘一日に少なくとも20人、多くは70人の日本軍’に性暴行にあって‘生理中にも日本軍を受けると’したし、要求を拒否でもすれば‘刀でぐいぐい裂く’残忍な暴力と殺しまであわなければならなかった被害者たちに自分の考えで身を売ったという意味を持つ‘慰安婦’という呼称は当然しない」と証言している[66]。
  • 2011年12月13日のニューヨークの韓人有権者センターとクィーンズボローコミュニティカレッジのホロコーストセンター(ナチスのユダヤ人虐殺記念館)が設けた記念講演で「15歳の時に台湾の神風部隊に連れて行かれあらゆる拷問に遭いほとんど死ぬところだった。一緒に連れて行かれた他の女性2人は死んだ。」と証言した[67]。
  • 2012年9月12日、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会が主催した講演会で「15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行されました。帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けました。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないかと思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった」と証言した[68]。
  • 2012年9月に慰安婦関連のイベントで招聘されたときに「1944年、16歳の時に台湾の新竹にある慰安所へ。生理の時も強姦された」とプロフィールが更新された[69]。

反論

性犯罪専門の弁護士は、「性犯罪による精神的損害は物証が存在しにくい側面があるため、被害者の客観的かつ一貫した供述が大きく影響する。被害者の精神科のカウンセリング記録や一貫した供述は十分な証拠となる」と説明した[70]。

性暴力犯罪においては精神的損害が中心となるため物証の確保が困難な場合があり、被害者の供述の一貫性や精神科の診療記録などが証拠として重視されることがあるとする見解がある。一方で、被害から長期間を経た証言においては記憶の変遷や供述の細部の変化が生じ得ることも指摘されている[71]。

また、李容洙のような日本軍慰安婦被害者の証言については、被害発生から初期の公的証言まで数十年の時間が経過している事例が存在する。これに関連して、戦時性暴力の被害は強制的状況下で発生することが多く、被害者が長期間沈黙を強いられる場合もあるとされる[72]。

さらに、紛争下の性暴力に関する調査では、被害者は性別を問わず存在し得ることが国際機関により指摘されており、国連の報告では一部の紛争地域において男性被害者の割合が一定程度確認された事例もあるとされる[73]。こうした背景から、集団的性暴力の被害証言の評価においては、個別の細部の変化のみをもって直ちに信頼性を否定することには慎重であるべきだとする議論も存在する。

人物

李容洙(右端の黄色いシャツの人物)。在大韓民国日本国大使館前にて行われる慰安婦への謝罪と補償を求める水曜集会にて(2011年8月)

2007年、米下院で「民間業者の甘言に乗せられた家出娘」を演出し、2週間後に来日して議員会館や外国特派員協会で「軍人が夜半に押し入り刃を突き付けて連行された」と語った。傍聴していた秦郁彦は、途中で付き添いの中年女性が何か囁き、米下院での証言の筋書きに切り替える場面を目撃したという[74]。

この慰安婦問題で「私は慰安婦だ、その慰安婦が語る事は真実だ」と豪語してきた李は、2020年5月7日に大勢の集会で、「学生たちが尊いお金と時間を使っているのに、集会は憎悪を教えている[75]」「学生たちに良い影響を与えず、集会はなくすべきだ[76]」、「集会への参加学生からの募金はどこに使われるか分からない」と指摘し、正義連の前理事長で4月の総選挙で国会議員に初当選した尹美香(ユン・ミヒャン)が「李さんから支持されている」と韓国メディアに語ったことを「全部でたらめだ」と否定。その上で「尹氏が国会議員になってはならない」「募金・基金は慰安婦被害者のために使うべきだが、そのように使ったことがない」等と名指しで非難した。

これに対して元挺対協代表尹美香国会議員は、「2015年の韓日(慰安婦)合意で朴槿恵(パク・クネ)政権が受け取った10億円について、李さんの記憶は変わっていた。ほかの(慰安婦被害者の)方々は10億円については受け取ったことを知っていたが、李さんだけは知らなかったと言った」と語り、さらには「李の当初の証言では、『私は被害者ではなく、私の友達が…』だった」と、李の重大な経歴詐称を告発、事実上非難した[77]。

2020年5月16日、長い間、慰安婦の歴史歪曲を告発してきたメディアウォッチのピョン・ヒジェ代表顧問が慰安婦像の前で李の虚偽証言と尹の慰安婦商売を同時に批判する記者会見を開いた。この日の記者会見には反日銅像真実究明共同対策委員会(共対委)で国史教科書研究所所長の金柄憲と『反日種族主義』の著者の一人である博士の鄭安基も出席した。金は『ニセモノ慰安婦イ・ヨンス』と『偽りの慰安婦像』問題と関連特別演説をした[78]。

経歴

日本統治時代の朝鮮・慶尚北道大邱府生まれ[1]。1944年に慰安婦として連れてかれて、「1947年まで慰安所で拷問も受けたと」している[79]。1992年6月25日、被害者であると公表した[1]。

韓国京畿道広州市にあるナヌムの家に拠を構え、韓国や日本の市民団体などの招聘に応じて政治運動のパフォーマンスを行っている。1992年から岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、日本国の総理大臣と天皇に対して、謝罪と賠償要求、THAAD配備決定以降は撤回を求める政治運動を行っている。2012年3月11日「国会議員になれば日本の天皇から謝罪と賠償を必ず受ける」として第19代総選挙 (大韓民国)に民主統合党に比例代表候補への立候補申請をしたり[80][81]、村岡崇光、尾山令仁などの日本人のキリスト教徒に赦しを与える[82][83]などの活動もしている。

2015年、韓国最大の女性法曹団体である韓国女性弁護士会がイ・ヨンスなど元慰安婦であったことを名乗り出た韓国人女性53人をノーベル平和賞候補に推薦する方案を推進することを発表した[84]。

2020年5月7日「自分は挺対協に利用された」「義援金が被害者に使われたことはない」「28年間にわたり続けてきた水曜集会(旧日本軍慰安婦問題の解決を求めて毎週水曜に開かれる定期デモ)に、これ以上参加しない」と明らかにした[85]。 第21代総選挙で共に市民党から当選した元挺対協代表尹美香は8日、「当党が把握したことによると、李さんの周辺にいらっしゃる方によって少し記憶が歪曲されたようだ」と話した[86]。

2020年5月9日、尹美香がイ・ヨンスの経歴詐称を公表した。「(イ・ヨンスが)1992年に告発の電話をかけてきた時、蚊の音ほどの声で震えながら、『私は被害者ではなく、私の友達が…』と話し出した当時の状況を昨日のことのように覚えている」とした。[87][88]。その後、尹美香は2024年、後援金横領などの罪で有罪判決を受けた[13]。

著書

  • 『わたしは日本軍「慰安婦」だった 日本にも戦争があった 3 』李容洙・高柳美知子著、新日本出版社、2009年

脚注

関連項目

外部リンク

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