李思訓
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李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の玄孫にあたり、李淵の従弟にあたる長平王李叔良の孫。李叔良の次子であり、原州都督府長史となった李孝斌の子。
若い時から、芸才により、呼びはやされ、高宗の時に、江都令に就任した。しかし、武則天によって李氏皇族が数多く害に遭ったため、官を捨てて隠れていた。神龍元年(705年)、唐が復興したため、中宗により宗正卿に任じられ、隴西郡公に封じられ200戸を与えられた。益州長史を経て、開元元年(713年)に左羽林大将軍となり、彭国公に封じられ、さらに200戸を与えられた。さらに、右武衛大将軍となったが、開元6年(718年)に死去し、秦州都督を贈られた。死後、李邕により碑文がつくられ、「李思訓碑」として伝わっている。
書画において「一時の妙」と称され、その山水画、樹木画、神仙画は高い評価を受けた。そのため「李将軍山水」として、彼の山水画は後世、金碧山水画風を代表するものとして有名になった。当時の人に「大李将軍」と呼ばれたと伝わる。晩唐の朱景玄の「唐朝名画録」では、第3位の「神品下」と評されている。画風は着色にこだわったもので、貴族的であった。
玄宗の命により、呉道玄と同時に、蜀道嘉陵江の山水を大同殿に描いた。呉道玄が1日にして完成させたのに対し、数か月かけて完成させ、玄宗により同様に賞された話が残っている。彼が大同殿に描いた泉から、夜に水がほとばしる音が立ったという伝承もある。
なお、子の李昭道・甥の李林甫・弟の李思誨・姪孫の李湊も絵画にすぐれていた。
