李継忠
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昭義軍節度使の李嗣昭と楊氏のあいだの次男として生まれた。若くして騎射を得意とした。父の征討に従って功績があり、後唐の荘宗により検校兵部尚書に任じられ、感義軍指揮使をつとめた。潞州大都督府司馬に転じ、検校尚書右僕射を加えられ、安義軍都巡検使をつとめた。天成年間、北都大内皇城使から河東節度行軍司馬に転じた。入朝して右驍衛将軍となった。ほどなく成徳軍節度行軍司馬に任じられ、検校司徒を加えられた。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵すると、継忠は一族こぞって石敬瑭に加担した[3]。
後晋の天福2年(937年)3月、沂州刺史に任じられ、検校太保を加えられた。ほどなく棣州刺史に転じた。中風に苦しみ、遠方の任地を断って、単州刺史に任じられ、輸忠奉国功臣の号を加えられた。天福3年(938年)、開封府に入朝して右神武軍統軍となった。天福4年(939年)3月、隰州刺史として出向した。天福7年(942年)8月、沢州刺史に転じた。開運元年(944年)、入朝して右監門衛大将軍となった。開運3年(946年)秋、開封府で病没した。享年は51[3][4]。