李鏻

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李 鏻(り りん、861年 - 948年)は、五代十国時代官僚宗室[1][2]

若くして進士科の受験を重ねたが、及第しなかった。河北を遊歴し、清海軍節度掌書記を称して、義武軍節度使の王処直に面会したが、礼遇されなかった。李鏻はそこで緑衣を脱いで緋衣を着て、鎮州に入って李弘規に面会し、一族としてかれに兄事したいと申し出た。このため推薦を受けることができた。成徳軍節度使の王鎔に召し出されて成徳軍節度従事となった。天祐18年(921年)、王鎔が死去すると、李鏻は引き続き王鎔の義子の張文礼の賓客となった。李鏻は張文礼の命を受けて晋王李存勗に対する使節をつとめると、ひそかに張文礼の罪を報告して、かれを図るよう勧めた。鎮州が平定されると、李鏻は覇府支使となった。あるとき李鏻は自分の4人の息子を殺すよう李存勗に願い出た。李存勗がその訳を訊ねると、李鏻は「かれらは鎮州で生まれて、激しい混乱の気に当てられてきました。留めておいてはいけません」と答えた。李存勗は笑って相手にしなかった[1][3]

後唐同光元年(923年)、李鏻は宗正寺卿に任じられた。まもなく工部侍郎を兼ねた。趙州昭慶県に唐の啓運陵(李淵の曾祖父の李天錫の陵墓)があり、李鏻は富民の李守恭の賄賂を受け、かれを陵台令に任じた。李守恭は横暴で、長吏に訴えられ、取り調べを受けて奏聞された。このため李鏻は司農寺少卿に左遷され、金紫を削られた。ほどなく河中節度副使として出向した。明宗のとき、兵部侍郎・戸部侍郎・工部尚書戸部尚書を歴任した。李鏻は明宗と旧交があり、宰相に昇りたい意志を隠さなかったので、馮道趙鳳はその増上慢に怒った。李鏻は抑留されていたのある人物を帰国させるよう枢密使安重誨に働きかけた。安重誨は李鏻の意見を聞き入れて、その人物に玉帯を与えて帰国させ、呉との親交を結ぼうとしたが、かえって叛かれた[4][5]長興元年(930年)、李鏻は兗州行軍司馬に左遷された[6]。長興3年(932年)、帰朝して、再び戸部尚書となった[7]。長興4年(933年)、兵部尚書に転じた[8]清泰2年(935年)、判太常寺事を兼ねた[9]。官吏の選任をつかさどったが、人材の選抜は秩序を失い、当時の世論に非難された[10]

後晋天福2年(937年)、李鏻は太子少保となった[11]開運元年(944年)、太子太保に転じた[12]後漢の天福12年(947年)10月、李鏻は司徒に任じられた[13]。12月20日(948年2月2日)、死去した[14]。享年は88。太傅の位を追贈された[10][2]

家族

  • 叔祖父:李宗閔
  • 祖父:李宗冉(唐の右金吾衛兵曹参軍)
  • 伯父:李湯(咸通年間の給事中
  • 父:李洎(咸通年間の韶州刺史)[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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