杜正蔵
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杜裕(字は慶延)の子として生まれた。学問を好み、文章を作るのを得意とした。開皇16年(596年)、秀才に挙げられた。ときに蘇威が選挙の監督にあたり、試験は賈誼『過秦論』・『尚書』湯誓・匠人箴・連理樹賦・几賦・弓銘が問われたが、問われるやいなや書き始め、その答案には修正の跡がなかった。ときに射策甲科及第として合奏されたが、曹司が難色を示して別奏したため、乙科及第に抑えられた。正蔵はひとたび訴えて取り下げたため、蘇威は怒って、丙科及第に改めた。正蔵は顕州行参軍に任じられ、下邑県正に転じた。大業年間、劉炫とともに学業に広く通じているとして、詔に応じて推挙された。ときに正蔵の弟の杜正儀が進士となり、杜正倫が秀才となり、兄弟3人がともに文章によって一時に宮中を訪れたため、これを栄誉とした。大業9年(613年)、正蔵は煬帝の高句麗遠征に従い、夫余道行軍長史をつとめた。帰還途中に涿郡で死去した。著書に『文軌』20巻があり、かれの碑・誄・銘・頌・詩・賦100篇あまりを収めた。当時に流行して高句麗や百済にも伝わり、『杜家新書』とも称された[3][4]。