貧しい家に生まれ、当初は私塾に通ったが、父の病死により学業を断念している。その後は果物などの小売で生計を立てた。1896年(光緒22年)、母の反対を押し切り、湖北新軍工程営管帯(営長)となっていた叔父・杜長栄を頼って兵士となる。一定の学力を備えていた杜錫鈞は叔父らから軍事務方として頼りにされ、新軍内で台頭していくことになる[3]。
1905年(光緒31年)頃に杜錫鈞は日本留学生として選ばれ、 陸軍士官学校留学生第4期を卒業した。日本滞在中には中国同盟会に加入し、孫文(孫中山)の随員をつとめたこともあったとされる。帰国後は湖北新軍第30標第3営管帯に任命される。この営は第21混成協の管轄下にあり、当時、協統をつとめていた黎元洪から目をかけられるようになった[3]。
辛亥革命が勃発すると、杜錫鈞は革命派に加わり、湖北新軍第2協協統、湖北軍政府軍令部部長、北伐軍第1軍総司令官などに任命された[2][3]。1912年(民国元年)、湖北第4師師長に任命され[2]、9月には陸軍中将位を授与されている。翌1913年(民国2年)1月、漢口鎮守使に任命された。1915年(民国4年)12月、袁世凱の皇帝即位とともに、一等男に特封されている[4]。
北京政府での杜錫鈞は当初、黎元洪の縁故で昇進した。後に直隷派有力者である呉佩孚へ接近し、その腹心と目されるようになる[5]。1920年(民国9年)、漢黄鎮守使に任ぜられ、1922年(民国11年)6月、治威将軍に特任された[4]。1926年(民国15年)2月、呉の意向により、急死した蕭耀南の後任として杜が湖北省長に任命されかけた。しかし、省民の反対に遭って取り止めとなり、替わりに留守軍司令に任ぜられている[2]。中国国民党の北伐に呉が敗北して失脚すると、杜も下野して天津に隠居した[2][5]。
1937年(民国26年)12月14日、王克敏が中華民国臨時政府を北京で創立する。日本軍などから杜錫鈞にも参加呼びかけがあったが、当初の杜はこれを拒絶し、天津のイギリス租界に隠れ住んだという[5]。しかし1939年(民国28年)8月、杜は翻意して臨時政府に参加し、治安部(総長:斉燮元)で参事に任命された[6][注 2]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府は南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。治安部は治安総署に改組され、5月4日、杜錫鈞は同総署参事代理に重任している[7][注 3][注 4]。8月30日、治安総署署長代理[注 5]・王永泉が死去したため、9月10日、杜が後任の署長代理に昇進した[8]。
1943年(民国32年)3月3日 、呉賛周の後任として河北省長代理に任命される[9][注 6]。4月に華北河渠建設委員会委員[10]、6月に河北省保安隊司令をそれぞれ兼ねた[11]。
同年11月11日、華北政務委員会の大規模な機構改革に伴い、杜錫鈞は綏靖総署督弁兼常務委員に昇進している[12][注 7]。1945年(民国34年)3月、綏靖総署督弁を離任し、華北政務委員会常務委員専任となった[2]。
日本敗北後、杜錫鈞は蔣介石国民政府に逮捕されたものの、まもなく釈放された。その後は北京市に閑居していたが、中華人民共和国成立後の1951年に反革命粛清運動(鎮反運動)で再逮捕されてしまう[5]。同年8月、北京市公安局などによる審理の末に、反革命罪で死刑判決を受け、即刻執行となった。享年70[1][注 8]。