王永泉
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事績
初期の活動
1902年(光緒28年)、日本に留学し、成城学校を経て陸軍士官学校第4期工兵科で学ぶ[4][5][注 4]。卒業して帰国後、湖北陸軍特別学校工兵教官。新建陸軍第8鎮参議に異動した李克果の後任で王永泉は工兵第8営管帯(大隊長)となる[6]。
工兵管帯としての王永泉は、(軽)汽球隊や橋梁隊といった兵種を創設したという[3]。前者については中国史上初の航空軍事組織とされており、当時の清朝が日本から購入した山田式気球2基の内1基が工兵第8営に配備され、王自らが新たに編成された気球隊の隊長となっている[7]。 武昌起義勃発時、王は永平秋操(軍事演習)に赴いており、督隊官の阮栄発に管帯代理を任せていたため難を逃れた[8]。また、この時の王は段祺瑞から演習での成果を賞賛され、後に安徽派に加わるきっかけとなった[3]。
中華民国成立後の1913年(民国2年)に北京政府で陸軍部技正、陸軍工兵上校を歴任する。1917年(民国6年)9月20日に湖南督軍公署参謀長(湖南督軍:傅良佐)を経て[9]、同年中に奉天陸軍司令部副官長兼補充旅旅長となった[2]。
福建における抗争
1918年(民国7年)1月29日、王永泉は第24混成旅旅長に任命され[9]、福建省に移駐する[4]。1921年(民国10年)4月1日、陸軍中将銜を加えられた[9]。1922年(民国11年)10月、王は安徽派の徐樹錚や南方政府の許崇智と結び、直隷派に接近した福建督軍李厚基[注 5]を省から駆逐する[3]。王は福建に軍政制置府を設立し、福建総撫兼省長を自称した。しかし王らによる福建省内の完全な統制はならず、まもなく制置府は廃止された[2]。同月7日には第24混成旅旅長の官職をいったん褫奪されたが[9]、まもなく同旅旅長に返り咲いたと見られる(年月日は不明)。
翌1923年(民国12年)3月20日、直隷派の孫伝芳が督理福建軍務善後事宜になると、王永泉は幇弁福建軍務善後事宜に任命され、福建省第2位の軍人としての地位を得た。4月23日、建安護軍使を兼ねたがまもなく廃止となり、5月21日、興泉護軍使を改めて兼ねている。8月23日、陸軍中将に任命され、陸軍上将銜を兼ねた。9月18日、溥威将軍に特任されている[9]。
翌1924年(民国13年)に入ると孫伝芳と王永泉の権力闘争が激化し、王は延平に拠って「福建独立」を宣言、孫に挑戦する。しかし同年3月には孫に敗北し、下野に追い込まれた[2][4][5]。これに伴い王は、福建省での地位も第24混成旅旅長の地位も全て喪失した[9]。その後しばらくは在野で逼塞することになる。
親日政権での動向
1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府が成立すると、王永泉はこれに参加する。翌1938年(民国27年)1月1日、王は治安部次長に任ぜられ、総長の斉燮元を補佐した[5][10]。また、治安部教練局局長も兼務した[11]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同年4月11日、王永泉は国民政府中央の軍事委員会委員に任命され[12]、5月4日には華北政務委員会で治安総署署長代理(治安総署督弁:斉燮元)[注 6]に派出された[13][注 7][注 8]。
同年8月30日、王永泉は北京特別市で死去した。享年60[1]。9月10日、治安総署参事代理の杜錫鈞が後任の署長代理に昇進している。