東城鉦太郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
年譜
田安徳川家に仕えた旧幕臣・東城景行の長男として、江戸小石川に生まれた[3][4][5]。
普通教育を修めたのち印刷局で幼年職工として働き、20歳で同局技師となった[3]。その傍ら、川村清雄から洋画を学び、1890年(明治23年)に職を辞して画業に専念する[3]。 日清戦争中の1894年(明治27年)、東京造画館の画工として、同館主・塚本岩三郎とともに「征清戦争油画」9枚を描いて宮内省へ献上[6][7]、昭憲皇太后と皇太子(のちの大正天皇)がご覧になり、うち5枚が御用品となった[7]。 翌年、第一軍司令部付の臨時雇を命ぜられ、日清戦争の戦争画を制作[3]。1897年(明治30年)[1]、宮内省からの注文で平壌攻撃の絵を屏風に揮毫した[1][3]。1898年(明治31年)より秀英舎の石版部図案教授(嘱託)となり、この間、神田三崎町や浅草のパノラマ館などからの委嘱で、黄海の激戦や北清事変などを描いて好評を博した[3][5]。特に北清事変の制作に当っては現地を遊歴して描画に活かした[3]。1904年(明治37年)、海軍省より日露戦争の実況描写を命ぜられ、満州丸(観戦御用船)にて旅順に渡り、第三軍や連合艦隊に付随して観戦[1]。1910年(明治43年)1月より、イギリスをはじめ、フランス、イタリア、ドイツ、エジプトを漫遊(10月まで)[5]。帰国後、海軍省の嘱託として、海戦画の大作に注力した[5]。
生涯に、東京府工芸品共進会、美術展覧会、博覧会などに出品して幾回かの賞牌・褒状を受けた[3][4]。
1929年(昭和4年)6月30日に死去した[8]。
- 原籍地は武蔵国豊島郡(のちの東京府北豊島郡高田村雑司が谷[1]、現在の東京都豊島区)。
- 1882年(明治15年) - 大蔵省印刷局に勤務し、お雇いイタリア人絵師エドアルド・キヨッソーネおよび川村清雄に師事。
- 1887年(明治20年) - 東京府工芸品共進会に出品し、褒状を受ける。
- 1889年(明治22年) - 明治美術会展に出品する。後に同会会員となる。
- 1902年(明治35年) - 明治美術会解散後、師の川村清雄に二代目五姓田芳柳らを加えた巴会の結成に参加する。以後、毎年展覧会に出品した。
- 1906年(明治39年)2月 - 海軍省の命により、日露戦争海戦画を制作[1]。4月、勲六等瑞宝章を受章[1]。
- 1910年(明治43年) - 日英博覧会開催を機に渡英している。
- 1929年(昭和4年) - 千葉県の房州で没、享年64歳。
三笠艦橋の図

日本海海戦においてZ旗を掲揚した直後の連合艦隊旗艦三笠艦橋の情景を描いたもので、左上のZ旗は降ろされている時のものである。
描かれている人物は、右から伝令(伝声管に向かっている人物)の玉木信助少尉候補生(三笠の佐世保港内での爆沈事故で殉職、最終階級は海軍少尉)、同じく伝令の三浦忠一等信号兵(その後不明)、参謀の秋山真之中佐(後に海軍中将)、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将(後に元帥海軍大将)、測的係(測距儀を覗き軍帽だけ映っている人物)の長谷川清少尉(後に海軍大将、台湾総督)、参謀長の加藤友三郎少将(後に元帥海軍大将、海軍大臣、内閣総理大臣)、伝令の野口新蔵四等水兵(後に故郷に帰農)、砲術長の安保清種少佐(後に海軍大将、海軍大臣)、艦長の伊地知彦次郎大佐(後に海軍中将、練習艦隊司令官)、砲術長附(双眼鏡で敵艦隊を覗いている人物)の今村信次郎中尉(後に海軍中将、第三艦隊司令長官)、航海長の布目満造中佐(後に海軍中将)、参謀(階段を登っている人物)の飯田久恒少佐(後に海軍中将)、航海士(海図を前にしゃがんでいる人物)の枝原百合一少尉(後に海軍中将)、伝令の山崎厳亀少尉候補生(後に海軍大佐)となっている。
東郷大将の左に描かれているのが羅針盤で、敵弾の炸裂による損傷から保護するため、釣床(ハンモック)でぐるりと囲ってある[9](→マントレット)。背後で高く囲ってあるのは艦の前檣(前部マスト)[9]。
現在知られているこの絵は関東大震災で一度焼失した後に描き直されたもので、煙突の煙やハンモックの縛り方などいくつか違いがあるが、描かれている人物は変わっていない[10]。近年、旧作では秋山真之は描かれていなかったとする著作がいくつかあるが、菊田愼典『坂の上の雲の真実』の間違った記述を確認せず採用したものである。いわゆる敵前大回頭の前後に秋山が艦橋を降りていたという証言はあるが、この場面はそれより数分前である。
画家の内田巌は本作を「明治戦争画の傑作」と評し、「当時の単なる記録としてばかりでなく、『皇国の興廃この一戦にあり』というたくましい精神を強く我々に与えるものである」と述べた[11]。
その他の作品
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 日本海海戦の図 | キャンバス油彩 | 60.5x230.5 | 財団法人三笠保存会 | 1907年(明治40年)[12] | |||
| 旅順開城 | 笠間日動美術館(山岡コレクション) | 1911年 (明治44年) | |||||
| 入船 | 大阪市立美術館 | 1917年(大正6年) | |||||
| 三笠艦橋の図 | キャンバス油彩 | 150.8x194.3 | 財団法人三笠保存会 | 1926年(大正15年) | |||
| 仁川沖海戦 | 徳川美術館[13] | ||||||
| 凱旋観艦式 | 明治神宮聖徳記念絵画館 | 1928年(昭和3年)以前 | |||||
| 凱旋観艦式「明治38年」 | キャンバス油彩 | 139.0x128.5 | 海上自衛隊第1術科学校 | 制作年不詳 | 聖徳記念絵画館のものと同画題[12]。 | ||
| 第一次大戦後のわか主力艦隊 | 旧松本家住宅[14] | ||||||
| 山村の春 | キャンバス油彩 | 1面 | 45.4×60.4 | 東京藝術大学大学美術館 | |||