東漸寺 (横須賀市)

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所在地 神奈川県横須賀市2丁目12番13号
位置 北緯35度13分41秒 東経139度39分02秒 / 北緯35.22802086度 東経139.65052263度 / 35.22802086; 139.65052263座標: 北緯35度13分41秒 東経139度39分02秒 / 北緯35.22802086度 東経139.65052263度 / 35.22802086; 139.65052263
山号 松得山(しょうとくざん)
院号 長島院(ちょうとういん)
東漸寺とうぜんじ


本堂

所在地 神奈川県横須賀市2丁目12番13号
位置 北緯35度13分41秒 東経139度39分02秒 / 北緯35.22802086度 東経139.65052263度 / 35.22802086; 139.65052263座標: 北緯35度13分41秒 東経139度39分02秒 / 北緯35.22802086度 東経139.65052263度 / 35.22802086; 139.65052263
山号 松得山(しょうとくざん)
院号 長島院(ちょうとういん)
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来阿弥陀三尊
創建年 仁治3年(1240年)[1][2]
開山 冏讃(見蓮社尊誉念阿)[3][2]
開基 長嶋義秀(または義季)[1][2]
中興年 天文年間(1532年  1555年)[2]
中興 長嶋肥後守[2]
札所等 鎌倉二十四地蔵霊場第19番札所(日金地蔵)
文化財 木造地蔵菩薩半跏像(市指定重要文化財)[4]
法人番号 8021005007970
東漸寺の位置(神奈川県東部内)
東漸寺
東漸寺
東漸寺 (神奈川県東部)
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東漸寺とうぜんじは、神奈川県横須賀市にある浄土宗寺院。山号は松得山、院号は長島院(長嶋院)。本尊は阿弥陀如来阿弥陀三尊)。かつては鎌倉光明寺の末寺であった[3]

境内には、鎌倉の日金山松源寺(廃寺)から移されたとされる「日金地蔵ひがねじぞう」が安置されていることで知られる[4]鎌倉二十四地蔵霊場第19番札所[5]

寺伝によれば、鎌倉時代前期の仁治3年(1240年)7月、三浦義明の五男である長嶋肥後守義秀(義季とも)が入道して「東漸」と号し、私邸を改めて寺院としたことに始まるとされる[1][2]

その後、寺勢は衰退するが、天文年間(1532年  1555年)長嶋肥後守によって再興、開山に見蓮社尊誉念阿冏讃という僧が招かれた[6]。その後、藤田性真という人物が堂宇を修理したとも伝わる[2]。長嶋氏は、少なくとも昭和期に至るまで同村(武村)に子孫が居住していたという[6]

山号の「松得山」は長嶋肥後守の法名「松得院栄誉浄光」に由来するとされる[7]。また、寺号の「東漸寺」についても、前述した創建者の号を由来とする説の他に、この肥後守の妻の法名「東漸院信誉仰秋」にちなんで名付けられたとする説がある[3][7]大三輪龍彦はこの説に基づき、開基について、この妻の菩提を弔うためであったとの説を示している[3]

天正5年(1577年)4月7日、長谷川九郎左衛門より武之東漸寺、長島附寺領指置由申上に付而鉄砲押。向後令免許候云々。丁丑卯月七日という文書が発給され、寺領の安堵と鉄砲役(軍役)の免除が認められた[2]。続いて天正19年(1591年)11月には、関東に入国した徳川家康より寺領3石の領知朱印状を賜り、寺基が固まった[2]

江戸時代後期の文政5年(1822年)には本堂をはじめとする諸堂を焼失したが、文政9年(1826年)に再建されたという[2]

伽藍

境内

本堂
文政9年(1826年)再建[2]。桁行7間半、梁間8間[2]
庫裏
1962年(昭和35年)時点の文献では、1961年(昭和36年)2月建造とある[2]。面積44坪[2]
墓地
三浦で活動した幕末の念仏行者、願海上人(安政5年〈1858年〉没)の墓がある[4]

支院

以前、近隣に2つの支院が存在した。明治時代初頭に廃寺となり、東漸寺に合併された[2]

西福院
方誉西寿尼が起立した草庵に始まり、「福玄の代」に支院となった[2]
後述の地蔵菩薩像が一時的に遷座していたという[1]
光泉寺
懐誉勝察が開創し、下武地域に所在した[8]。来由の詳細は不明[2]
前述の願海上人が中興開山し[9]、寄宿地とした寺院で、入寂地でもある[8]
山門

文化財

木造地蔵菩薩半跏像

松源寺跡地(鎌倉市雪ノ下2丁目)

横須賀市指定重要文化財。通称「日金地蔵(ひがねじぞう)」。像高は100.5センチメートル(103センチメートルとも[10])。鎌倉二十四地蔵霊場第19番札所本尊である[5]。商売繁盛の利益で知られる[1]

左手に錫杖、右手に宝珠を持ち、小蓮台に左足を踏み上げた半跏の像である[11]寄木造で玉眼が入る。肉身部は漆箔、衣文部は黒彩色が施されている[1]。頭・体部は前後三材矧ぎ、脚部は横一材で膝前部の二材を矧ぎつけている。技巧を凝らした複雑な衣文線に宋風(中国の宋代様式)の影響が見られるとされる[1]。一方で後年の補修により顔や身体の造形は損ねられているといわれる[11]。史迹美術同攷会の中村進は、生気に乏しく形式化した像であると評している[10]鎌倉国宝館の三浦勝男は、彫刻について「伸びやかさに欠ける」としつつ、量感や着衣の表現はよくまとまっていると評価した[11]

元来は鎌倉・鶴岡八幡宮別当寺として隣接していた日金山弥勒院松源寺の本尊であった。松源寺は、源頼朝伊豆国日金山の地蔵に祈願して挙兵に成功した因縁により、鎌倉入り後に勧請して建立した寺と伝えられる[1]

胎内の墨書銘により、寛正3年(1462年)11月15日、良尊という人物の勧進を得て住持の道旭が仏師の宗円に造立させた旨が記されており、その他多数の結縁者名が書き込まれている[1]。また、寛永2年(1625年)と元禄16年(1703年)に彩色等の修復が施されている[11]

明治初年の神仏分離廃仏毀釈により松源寺が廃絶した後、像はまず長谷寺へ移された[1]。その後、東漸寺の支院であった西福院へ移された。西福院は明治初年に東漸寺へ合併されたが、像自体が東漸寺へ移座されたのは昭和初年とされる[1]。松源寺は当初真言宗であったが、途中禅宗、のち浄土宗に改宗しており、三浦勝男はこれら浄土系寺院への遷座がこの改宗の縁によるものと推測している[11]

鎌倉二十四地蔵霊場札所の役割も以前は松源寺が担っていたもので、遷座により継承された[5]。現在、霊場の中で唯一鎌倉市外の札所となっている。

関連寺院

前後の札所

脚注

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