大橋俊雄

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大橋 俊雄(おおはし しゅんのう、1925年大正14年〉9月1日[1] - 2001年平成13年〉12月26日[1])は、日本仏教史学者。初名は「登志夫」[1]、のち「俊雄」(としお→しゅんのう)。

神奈川に生まれる[1]1948年大正大学仏教学部仏教学科卒業[1]元々は真宗大谷派門徒の家に生まれたが、浄土宗にて得度受戒し、横浜市泉区岡津町の西林寺に入り住持を務める。[要出典]

横浜市立高等学校や、藤嶺学園藤沢高等学校教諭、大正大学非常勤講師、日本文化研究所講師などを務めた[要出典]。1992年「一遍智真の宗教に関する成立史的研究」により、立正大学から文学博士の学位を受ける[1][2](論文は未刊行)。晩年、浄土宗本山蓮華寺貫主となる。2001年、肺癌のため横浜の自宅にて死去。76歳。

時宗研究者として

大学在学中、のちに遊行72代・藤沢55世(時宗法主他阿一心となる寺沼琢明の授業を受け、時宗研究に目覚める。戦前から着目していた赤松俊秀とともに、戦後の学界で時宗研究の先鞭をつけたのは大橋といえる。笠原一男と親しくし、日本史における時宗研究の意義を広めた。「時宗文化研究所」研究員(所員は大橋のみ)として、金井清光発行の『時衆研究』編集を56号より引き受け、100号で終刊を迎えた。

評価

  • 時宗は中世には、時衆であって宗旨ではなかったが、大橋も例外なく宗派史観から脱することはできなかった。また、多数の業績を遺しているが、古いタイプの研究者らしく典拠をしばしば省くことがあり、孫引きが少なくなかったようである。ただパイオニアとしての功績はそれらを補って余りある。概説書はわかりやすく、時宗研究を志す者には必読となっている。
  • 金井清光によると、子女を二人同時に亡くすという災難に見舞われながら、『時衆研究』を遅滞なく刊行したという。
  • 時宗宗門からは、金井清光とともに、他阿一心法主より一度表彰されただけであった。また所属する浄土宗からも冷遇された(晩年は講話の小冊子「法然さまと選択本願念仏集」を、浄土宗で公刊するなど認められていた)。そのため、後年は時宗および浄土宗の異流とされた、一向俊聖が開祖である一向派研究に力を注いだ。一向派寺院の親睦団体である八葉会教学顧問となり、史料集を多数執筆する。後年に一向派の血脈を相承し、本寺であった蓮華寺貫主に推戴された。

著作

伝記

脚注

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