松田正久

日本の政治家 From Wikipedia, the free encyclopedia

松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日弘化3年4月11日[2]- 1914年大正3年〉3月4日)は、日本政治家。依勲功特授男爵幼名は又之輔(又之助)、大之助[2]は牛州・江村など。

生年月日 1846年5月6日
弘化3年4月11日
没年月日 (1914-03-04) 1914年3月4日(68歳没)
概要 生年月日, 出生地 ...
松田 正久
まつだ まさひさ
生年月日 1846年5月6日
弘化3年4月11日
出生地 江戸幕府肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市
没年月日 (1914-03-04) 1914年3月4日(68歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市麻布区笄町(現:東京都港区麻布
出身校 昌平坂学問所
所属政党自由党→)
九州改進党→)
立憲自由党→)
憲政党→)
自由派憲政党→)
立憲政友会
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
依勲功特授男爵
親族 父・横尾唯七
母・横尾まち
兄・横尾経久
姉・横尾まき子
弟・横尾長左衛門
養父・松田勇七
養母・松田ルイ
養子・松田正之
大日本帝国の旗 第13・16・18代 司法大臣
内閣 第1次西園寺内閣
第2次西園寺内閣
第1次山本内閣
在任期間 1906年1月7日 - 1908年3月25日
1911年8月30日 - 1912年12月21日
1913年2月20日 - 1913年11月11日
天皇 明治天皇
大正天皇
大日本帝国の旗 第7・12代 大蔵大臣
内閣 第1次大隈内閣
第1次西園寺内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日
1908年1月14日 - 1908年7月14日
天皇 明治天皇
大日本帝国の旗 第15代 文部大臣
内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年10月19日 - 1901年6月2日
天皇 明治天皇
大日本帝国の旗 第12代 衆議院議長
在任期間 1904年3月18日 - 1906年1月19日
天皇 明治天皇
選挙区佐賀県第1区→)
(佐賀県第2区→)
佐賀県郡部
当選回数 7回
在任期間 1890年7月2日 - 1891年12月25日
1898年8月11日 - 1914年1月19日[1]
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経歴

生い立ち

肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]小城藩横尾唯七(岡氏より婿入り[3])と妻・まちの次男として生まれた[2]。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された[2]。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った[2]。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する[2]

明治維新後

明治2年(1869年)、小城藩の派遣留学生として東京へ出府する[4]。その背景には小城藩での改革・保守派の対立があり(松田は少数の改革派の一人)、優秀な若者を東京で学ばせ藩政改革に役立てようとする改革派の思惑があった[4]。同年2月西暦1869年3月)、上京すると藤野海南家塾へ入り漢学を学び、同年12月1870年1月)には官立昌平学校へ入学したが[5]、翌明治3年7月(1870年8月)に同校が閉校となったため、塙忠韶の家塾へ移り国学を学んだ[6]

西周との出会い

明治3年12月1871年2月)、西周の育英舎へ移る[6]。育英舎は旧福井藩出身者を教育するために開かれたため、他藩出身者を受け入れていなかったが、松田の強い希望により特例として入学が認められた[6]。育英舎でフランス語国際法、中国の律を学び、特に万国公法(国際法)に関して塾中でも頭角を表した[6]。西のもとで松田は初めて本格的に西洋的な哲学や論理を学び、国際法の遵守という外交観の基礎を修めた[6]。それまで漢学や国学を学んできた松田にとって、西との出会いは大きな転機となった[6]

フランス・スイス留学

明治5年3月19日1872年4月26日[7]陸軍省七等出仕を命じられ、陸軍裁判所分課に配属された[8]。松田はかねてより留学を望んでいたが、学資の用意が難しかったため、留学を見据えて西が山縣有朋を通して陸軍省へ周旋したという[8]。同年8月29日10月1日)に松田はフランス留学の命を受けて陸軍省出仕を免ぜられ[9]9月13日10月15日)にはフランス郵船ゴタベリイ号にて横浜からフランスへ向けて出港した[10]。同船には川路利良井上毅河野敏鎌沼間守一岩倉使節団に合流する司法省調査団の一行や、成島柳北も同乗していた[11]。船は1872年11月28日にフランス南部マルセイユに着港、一行は汽車に乗り、11月30日未明にパリへ到着した。松田の留学期間は新暦1875年(明治8年)6月まで、約2年半の予定であった[11]

フランスへ渡った松田はまず、基本的なフランス語能力を身につけるため、パリのバティニョール地区にあった私立中学へ入学した[11]。その後1973年8月初め頃までにスイスローザンヌ(フランス語圏)へ移り、この地でアカデミーに通いながら政治学民法刑法経済学を学んだ[12]。学外では頻繁に議会見学にも通い、議場から出てくる議員を捕まえては議事の説明を求め、それを日本の知人に報告した[13]。また、フランス滞在中にはのちに『東洋自由新聞』を共に創刊することとなる西園寺公望中江兆民光妙寺三郎らとも知遇を得た[13]

松田が派遣されたのは「フランス留学」であったが、政治等を学んだのは、実質的にはスイスであった[13]。松田がスイスへ移ったのは、当時のパリがパリ・コミューンから間もない政治的に不安定な時期であり、勉学に適さなかったためと思われる[14]

自由民権運動参加から長崎県会議長に

帰国後、陸軍省を辞して佐賀にて自由民権運動に参加する。1879年(明治12年)には長崎県会議員となり、のち同会議長に就任。自由党九州改進党に入党し、さらに西園寺とともに『東洋自由新聞』を創刊した。政府内では松田の才能を惜む意見もあり、自由民権運動が衰退した1887年(明治20年)、司法大臣山田顕義の要請を受けて司法省検事となり、関西法律学校(のちの関西大学)にも短期間出講した[15]。翌年には鹿児島高等中学造士館の教頭に就任した。

政党政治家へ

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で、佐賀県第1区から出馬し当選。立憲自由党に参加する。民権派の中心人物と目され、同年9月には政府支持者による暗殺未遂事件があったといわれる。翌年、衆議院予算委員長として第1次松方内閣提出の予算案を廃案に追い込むが、第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎による選挙干渉により落選。1898年(明治31年)の第6回総選挙まで議席回復はならなかったが、この間に党内の政策・事務に専念し、伊藤博文と自由党との関係回復に努めた。西園寺の仲介によって伊藤の面識を得、次第にその信任を得るにいたった。憲政党による隈板内閣が成立すると、大蔵大臣として入閣し、直後の第6回総選挙で議席を回復した。同党分裂によって内閣はわずか4か月で崩壊するが、のち旧自由党系の憲政党に属し、星亨とともに伊藤を首領とする新党結成運動に奔走した。

1900年(明治33年)、伊藤を総裁とする立憲政友会では総務委員として党組織の編成にあたり、その功により第4次伊藤内閣では文部大臣を務めた。1903年(明治36年)に西園寺が第2代総裁となると、党務に不得手な西園寺に代わって党務を統括した。1904年(明治37年)3月、衆議院議長に選出される。日露戦争に際しては、第1次桂内閣と議会との協力関係確立に尽力した。第1次第2次西園寺内閣では法相と蔵相を務めるなど、西園寺、原敬とともに政友会と内閣を支えて、刑法改正や日露戦後の財政再建などに尽力した。

憲政擁護運動では原とともに中心的な役割を果たし、第1次山本内閣では法相として入閣。やがて西園寺が政友会総裁を辞して松田をその後任に推薦するが、1913年大正2年)11月に至って持病の胃病が悪化し、療養を理由に法相を辞任。翌1914年(大正3年)1月、依勲功特授男爵の叙爵により華族に列せられ、衆議院議員を退職。同年3月4日に胃潰瘍のため死去した[16]享年70。墓所は青山霊園

人物・逸話

  • 兄姉と共に教育熱心な両親のもとで育った[2]。母のまちによれば、松田は幼い頃から文字を書き、孟子の一節を暗唱できた[2]。また7歳で藩主に謁見した際は、孟子の素読を試みて周囲を驚かせたという[2]
  • 兄の経久は藩校の講師となり、のちに郷里の小学校で教師を務めた[2]。姉のまき子は同藩の石井家へ嫁ぎ、晩年は東京の松田邸の敷地内に暮らした[2]。弟の長左衛門は幼くして他家へ養子に出ている[2]
  • 当時、河野広中西郷従道と並んで「不得要領」、「狸親父」とも評されながらも温厚篤実な人柄で人望を集め、西園寺や星、原など同志を前面にたてて自身は裏方に徹した。原は松田の立ち回りの上手さへの不満を日記に記す一方で、その仕事ぶりを評しており、西園寺が次期総裁に推薦するのも当然と考えていた。原は松田の急死によって後継総裁に就任するが、戸惑いを隠せなかったという。
  • 清貧でスキャンダルとは無縁だったが、西園寺が呆れるほどの物惜しみをすることも少なくなかった。松田が熱海別荘を構えたとの情報を入手した記者が、その真相を確認すべく熱海を訪問したところ、建物は庶民の住宅と見紛う粗末なものだった。松田によれば、体調を崩して診察を受けたところ温泉療養を勧められたが、温泉宿では費用がかかるので別荘を建てて温泉を引いた方が安上りだと説明した、といわれる。

栄典

位階
爵位
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
受章年 略綬 勲章名 備考
1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日大綬章[21]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[22]
1914年(大正3年)3月5日 旭日桐花大綬章[19] (没時陞勲)
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外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1908年(明治41年)3月9日 大韓帝国 李花大勲章[23]
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親族

脚注

参考文献

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