Wikiwand AI

阪谷芳郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 1863年3月5日
(文久3年1月16日)
出生地 江戸幕府・備中国後月郡西江原村(現:岡山県井原市西江原町)
没年月日 (1941-11-14) 1941年11月14日(78歳没)
阪谷 芳郎
さかたに よしろう
生年月日 1863年3月5日
(文久3年1月16日)
出生地 江戸幕府・備中国後月郡西江原村(現:岡山県井原市西江原町)
没年月日 (1941-11-14) 1941年11月14日(78歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本・東京府東京市小石川区原町(現:東京都文京区白山)
出身校 東京大学文学部政治学科
所属政党 公正会
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
配偶者 阪谷琴子
子女 長男・阪谷希一
次男・阪谷俊作
長女・堀切敏子
次女・高嶺和子
三女・中村八重子
四女・秋庭千恵子
五女・伊藤總子
親族 岳父・渋沢栄一(貴族院議員)
娘婿・堀切善次郎(内務大臣)
娘婿・中村貫之(貴族院議員)
玄孫・橋本岳(衆議院議員)
大日本帝国の旗 第11代 大蔵大臣
内閣 第1次西園寺内閣
在任期間 1906年1月7日 - 1908年1月14日
第4代 東京市長
在任期間 1912年7月12日 - 1915年2月25日
在任期間 1917年1月27日 - 1941年11月11日
テンプレートを表示
晩年の阪谷

阪谷 芳郎(さかたに よしろう[1]、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。

後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業[2]。

1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。専修学校や海軍主計学校で教鞭をとる。1888年(明治21年)、渋沢栄一の娘琴子と結婚し、会計法など財務に関する法律の整備に力を注いだ[2]。1894年(明治27年)の日清戦争では大本営付で戦時財政の運用にあたり、戦後の財政計画も担当した[2]。1897年(明治30年)には大蔵省主計局長となり、1899年(明治32年)には法学博士の称号を与えられ、1901年(明治34年)には大蔵省総務長官にまでのぼった[2]。

1903年(明治36年)には大蔵次官となり、日露戦争では臨時煙草局製造準備局長と臨時国債整理局長も兼任し、軍事費の調達および戦後の財政処理を行う[2]。1906年(明治39年)には第1次西園寺内閣の大蔵大臣を務めた。1907年(明治40年)9月、日露戦争の功績により男爵が授けられる。1908年(明治41年)に大蔵大臣を辞任して大蔵省を去り、半年間外遊する[2]。

1912年(明治45年)7月から1915年(大正4年)2月まで東京市長を務めた。市長在任中に、明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立に尽力した。市長辞職後、大正4年に『家庭の経済』刊行[2]。1917年(大正6年)1月27日には補欠選挙で貴族院男爵議員に選ばれ[3][4]、1941年(昭和16年)11月11日に子爵に陞爵するまで在任した[5]。1919年(大正8年)、男爵議員による貴族院院内会派公正会の結成に際しては、幹事の一人を務めている。

1926年(大正15年)4月、発足した太平洋問題調査会の理事に就任[6]。

1928年(昭和3年)、日本ホテル協会会長就任[7]。専修大学にも教員として出講し、のち学長を務め、創設者の一人で初代学長だった相馬永胤死後の大学運営を取り仕切った。

1941年(昭和16年)4月、脳溢血で倒れ、紀元二千六百年奉祝事業に尽力したことが功績とされ、子爵に陞爵した。同年11月14日、満78歳(享年79)で死去。墓所は谷中霊園。

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1895年(明治28年)10月31日 勲四等旭日小綬章[16]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[17]
1899年(明治32年)10月24日 勲三等旭日中綬章[18]
1902年(明治35年)12月28日 勲二等瑞宝章[19]
1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日大綬章[20]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[21]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[22]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[23]
1930年(昭和5年)12月5日 帝都復興記念章[24]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[25]
1941年(昭和16年)4月28日 旭日桐花大綬章[26]
外国勲章等佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1904年(明治37年)1月20日 清 大清帝国 第二等第一双竜宝星(中国語版)[27]
1907年(明治40年)7月1日 フランス第三共和政 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランオフィシエー[28]
1908年(明治41年)3月3日 大韓帝国 李花大勲章[29]
1908年(明治41年)5月5日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 白鷲勲章(英語版)[30]
1930年(昭和5年)4月17日 ドイツの旗 ドイツ国 赤十字第一等名誉章(ドイツ語版)[31]
1934年(昭和9年)3月1日 満洲国 満洲帝国 建国功労章[32]
1935年(昭和10年)9月21日 満洲国 満洲帝国 満洲帝国皇帝訪日紀念章[33]
賞杯等

社会活動

阪谷芳郎は多くの会社・学校・団体や事業に関与し、「百会長」と評された。よく英語に通じ、カーネギー平和財団の会議や、パリ連合国政府経済会議などに出席している。大日本平和協会、日本国際連盟協会の創設にも関わった。また、外地の日本語教育に熱心で、日語文化学校を創設した。帝国発明協会では24年(1917年 - 1941年)の長きにわたり会長を務める。

都市計画にも関心が深く、蔵相在任時に神戸港築港計画を決定し(ただし、後日港湾を管轄する内務省からは「越権行為」と非難され、閣内紛糾の一因となった)、またのちに都市美協会会長も務めた。

家族・親族

二女の和子。夫と子供たちと

関連作品

系譜

阪谷家(阪谷家系図)
2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩(2.65ha)の田と1町5反4畝2歩(1.53ha)の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝(4.94ha)の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩(2.74ha)の田と1町1反9畝7歩(1.19ha)の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。
                 ┏喜左衛門
四郎兵衛━━四郎兵衛━━治兵衛━━┫
                 ┗左治兵衛━━甚平━━甚兵衛宗房━━三五八良哉━━素三郎(朗廬)
        ┏━礼之介
        ┃
        ┣━次雄
 (朗廬)   ┃
素(素三郎)━━╋━達三
        ┃
        ┣━芳郎━━━━━┳━希一━━━━━┳━正子
        ┃        ┃        ┃
        ┗━時作     ┣━敏子     ┣━朗子
                 ┃        ┃
                 ┣━和子     ┣━芳直━━━━━┳━素子
                 ┃        ┃        ┃
                 ┣━俊作     ┣━理子     ┣━英子
                 ┃        ┃        ┃ 
                 ┣━八重子    ┣━順子     ┣━民子
                 ┃        ┃        ┃
                 ┣━千重子    ┣━春子     ┗━綾子━━━━━┳━直樹
                 ┃        ┃                 ┃
                 ┗━総子     ┗━秀直              ┗━裕璃
                                                                                                                                            

註

参考文献

研究・評伝

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks