岡部長職
日本の藩主、政治家、外交官
From Wikipedia, the free encyclopedia
岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月4日〈嘉永7年/安政元年11月16日〉- 1925年〈大正14年〉12月27日)は、和泉国岸和田藩の第13代(最後)の藩主。明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。
| 岡部 長職 おかべ ながもと | |
|---|---|
|
肖像写真 | |
| 生年月日 |
1855年1月4日 (嘉永7年11月16日) |
| 出生地 |
|
| 没年月日 | 1925年12月27日(70歳没) |
| 死没地 |
|
| 出身校 |
慶應義塾 (現:慶應義塾大学) |
| 所属政党 | 研究会 |
| 称号 |
正二位 勲一等旭日大綬章 子爵 |
| 配偶者 |
青山錫子(先妻) 前田坻子(継妻) |
| 内閣 | 第2次桂内閣 |
| 在任期間 | 1908年7月14日 - 1911年8月30日 |
| 在任期間 | 1916年4月8日 - 1925年12月27日 |
| 在任期間 | 1897年10月12日 - 1898年7月16日 |
| 在任期間 | 1889年12月26日 - 1891年6月15日 |
| 選挙区 | 子爵議員 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1890年7月10日 - 1916年4月11日 |
略歴
旧暦嘉永7/安政元年11月16日(1855年1月4日)、岸和田藩11代藩主岡部長発の長男として、江戸藩邸にて生まれる。母は鳥居忠挙の娘。幼名は弥次郎。長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛(筑前守)が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成人後に家督を譲られることとなった。
慶応4年/明治元年1月(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、岸和田藩は新政府に恭順。明治天皇の即位大礼後の9月(10月)、長職は藩主代理として京に上り参内、12月(1869年2月)に伯父の隠居に伴い、数え15歳で家督を継いだ(従五位下、美濃守)。明治2年6月(1869年7月)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なったが、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県で免官となり、太政官の命により東京へ移住した。
新暦1874年(明治7年)、慶應義塾に入塾、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。1878年(明治11年)、リバイバリストのドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる(日本組合基督教会の新島襄と沢山保羅への手紙で故郷・岸和田での伝道を依頼、1885年に岸和田教会が誕生[1])。1879年(明治12年)よりイェール大学シェフィールド科学学校(Sheffield Scientific School)で学んだが中退。1882年(明治15年)9月には渡英し、ケンブリッジ大学で学び、ヨーロッパ各国を歴訪した。1883年(明治16年)10月の帰国後は、三好退蔵の自宅での聖書研究会に参加していたが、近くの霊南坂教会(現:日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員となった。
華族令制定に伴い、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵。1886年(明治19年)3月に公使館参事官に任じられ、翌月には外務省条約改正掛を兼務。翌年12月に在英国公使館勤務を命じられ(翌月赴任)、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月に外務次官に任じられ、1890年(明治23年)2月に帰国。同年7月10日には貴族院子爵議員にも選出された[2]。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力したが、1891年(明治24年)6月、前月の大津事件の責任をとる形で、特命全権公使に転任した(94年6月迄)。
1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙せられ、東京府知事に任じられる(翌年7月迄)。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣(11年8月迄)に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に努めた。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官に任じられ[3]、同月11日、貴族院議員を辞職した[4]。
その他、鉄道会議議員(1894年)、鉄道国有調査会副会長(1899年)、南満洲鉄道株式会社設立委員(1906年)、臨時仮名遣調査委員会委員(1908年)、法律取調委員会会長(1908年)、学習院評議会会員(1916年)、宗秩寮審議官(1924年)、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。
1925年(大正14年)12月27日、持病の脳梗塞の再発により死去。享年72。天皇・皇后より祭資が下賜された。墓所は東京都港区の青山墓地。
身の丈180cmを超えるという、いわゆる「六尺豊かな大男」であり当時としてはもちろん、現代日本人男子と比較しても大柄な人物であった。
