柳原博光
From Wikipedia, the free encyclopedia
大原重朝伯爵の三男として東京府(現在の東京都)に生まれる。初名は大原 義質。柳原義光伯爵の養子となる。学習院を経て、1911年(明治44年)7月、海軍機関学校(20期)を優等で卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1917年(大正6年)12月、海軍大学校機関学生となり、1919年(大正8年)12月に卒業した。
巡洋戦艦「伊吹」分隊長、機関学校教官を経て、1922年(大正11年)5月から1924年(大正13年)7月までイギリスに駐在した。帰国後は連合艦隊参謀、機関学校教官、海大教官、ジュネーヴ会議随員を歴任。1927年(昭和2年)12月、海軍省軍務局員となり、同局第3課長を経て、1931年(昭和6年)12月、機関大佐に昇進し燃料廠製油部長となった。その後、軍需局第2課長、アメリカ駐在・艦政本部造兵造船監督長、商工省燃料局第2部長などを歴任し、1937年(昭和12年)12月、海軍少将に進級した。
1941年(昭和16年)10月に海軍中将となり、第1海軍燃料廠長として太平洋戦争を迎えた。その後、機関学校長を務め、1944年(昭和19年)10月、機関学校が海軍兵学校に統合され舞鶴分校となり分校長に就任。同年12月、予備役に編入された。
その後、帝国石油副総裁を務めた。1946年(昭和21年)2月、養父の死去に伴い伯爵を襲爵した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
戦後、しばしば(少なくとも1958年(昭和33年)、1961年(昭和36年))御機嫌奉伺のために参内し、御縁故者として昭和天皇に拝謁する機会を得た[2][3]。